猫の足あとによる千葉県寺社案内

遠寿院|市川市中山にある日蓮宗寺院

遠寿院の概要

市川市中山にある日蓮宗寺院の遠寿院は、正中山と号します。遠寿院は、宗祖日蓮聖人より相伝の祈禱法を、法華経寺第10世日俒上人の代から、堅固弘道の志念力の厚い者を選抜して祈禱法を相伝することになり、選ばれた経王院日詳上人が、荒行堂に充当するため円立坊と号して天正19年(1592)に創建、江戸時代中期から制度された福伝師職の初代に就任した円立坊第3世遠寿院日久上人は、荒行法を結集大成、祈祷修法中興の師と仰がれ、第4世日行上人が遠寿院日久上人の徳行を慕い、遠寿院と改めたといいます。

遠寿院
遠寿院の概要
山号 正中山
院号 遠寿院
寺号 -
本尊 一塔両尊四士
住所 市川市中山2-3-2
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



遠寿院の縁起

遠寿院は、宗祖日蓮聖人より相伝の祈禱法を、法華経寺第10世日俒上人の代から、堅固弘道の志念力の厚い者を選抜して祈禱法を相伝することになり、選ばれた経王院日詳上人が、荒行堂に充当するため円立坊と号して天正19年(1592)に創建、江戸時代中期から制度された福伝師職の初代に就任した円立坊第3世遠寿院日久上人は、荒行法を結集大成、祈祷修法中興の師と仰がれ、第4世日行上人が遠寿院日久上人の徳行を慕い、遠寿院と改めたといいます。

境内掲示による遠寿院の縁起

荒行堂遠寿院略縁起
末法の行者息災延命諸願成就の祈祷は遠く吾が日蓮大聖人直授秘妙五段相伝の秘法でありまして、祈祷肝文を始め撰法華経修法伝書に至るまで残りなく大本山法華経寺の開山日常上人への御相伝に始まる。それは千金莫伝と申しまして例え千金の黄金を積んでも金では伝えない唯授一人の秘法でありまして、日常上人より之を二代目日高上人へ、日高上人は三代日祐上人へと瓶の水を瓶に移すように、一滴も漏れることなく相伝されたのでありますが、第十代日俒上人の時に及んで、日蓮大聖人の御理想である一天四海皆帰妙法の御意思に従ひ、一門の中より特に行力堅固弘道の志念力の厚い者を選び、神文起請の上、相伝することになったのであります。その選に選ばれたのが経王院日詳上人(法華経寺第三代日祐上人の法孫)で、新たに堂宇を建立し荒行堂に充当したのが遠寿院の前身円立坊であります。それは皇紀二二五一年今から三百九十余年前の天正十九年一月二十日のことで(平成元年より計算すると三百九十八年前となる)それが荒行堂の濫觴であり、本化の祈祷修法は広宣流布の前提として一般民衆救済の為貴族的祈祷より一歩前進したのであります。法華経寺第十二代仏心院日珖上人の文禄二年に三山輪番の制が創始された時に、法華経寺住職は三ヶ年を輪番の一期とした為修法相承に専心出来ない事を憂い茲に副伝師職を置いて修法道に堪能な人を挙げて相伝の事を司しまえたのが福伝師の始めであります。其の初代福伝師に選ばれたのが当院第三世遠寿院日久上人で正中山正嫡の大秘法を悉く相承され行力堅固修法錬達の聞え高く一千日の行法を成満し今日の修法伝書の殆ど凡てが日久上人の時に結集大成されたものばかりて祈祷修法中興の師と仰がれ、為に当院第四世日行上人は日久上人の徳行を慕い其の院号を取って寺号とし、即ち円立坊を遠寿院と改称し代々資師相承の法水は滴々として六百数十年、其の間先聖先哲の苦修練行によって秘法は逐次に巧緻を加え、以顕経力内外の欣仰を博して爾来根本道場として代々当院住職が口訣相承の任を負い連綿相続今日第三十四世となり、現在宗門唯一無二の日蓮聖人直授の相伝書を格護している加行道場であります。
平成元年七月吉辰
根本祈祷系授的伝加行所遠寿院
第三十四世 妙行院日輝 謹記(境内掲示より)

「市川市内の寺院明細帳」による遠寿院の縁起

法華経寺塔中 遠壽院
本寺法華経寺第四世日祐ノ法孫経王院日祥ノ開闢ニシテ寛永十一年申戌四月ノ創立焉該遠壽院日久者深志願ニ因リ五千日間荒行法成満ノ後チ法華一宗門祈祷相承ノ加行所トナランコトヲ本寺ニ懇冀ス本寺モ又三ヶ年毎ニ輪番ノ寺跡ニシテ永職ノ地ニ非ラス而メ事務ノ繁キニ困苦スレバ幸ニ之ヲ許諾ス、即チ今迄該院ヲ以て加行所トナシ該住職ヲ以テ福伝主ト定矣(「市川市内の寺院明細帳」より)

「日蓮宗寺院大鑑」による遠寿院の縁起

天正19(1592)年1月20日の創立。開山常修院日常(永仁7(1299)年3月20日寂)。(「日蓮宗寺院大鑑」より)


遠寿院所蔵の文化財

  • 遠壽院日久上人石塔
  • 古木梅
  • 荒行堂旧水盤

古木梅

古木梅由来
加賀百万石を触頭とする大名前田家は、古来より菅原道真公の末裔と伝えられ、「梅鉢紋」を以てその家紋とする。
この前田家には「世継ぎ男子出生の暁には、梅の木を三本植樹する」という家訓が伝承されている。
当山境内の垂れ梅丘三植の白梅は、文政年間、加賀支藩である越中富山十万石第九代藩主前田利幹公が、子宝成就の祈願を鬼子母尊神に祈念し奉り、その諸願成就の祝禱記念として奉納植樹されたものである。
樹齢約二百年近くを経て苔むした古木梅は、今なお毎年二月節分前後から三月彼岸に至るまで、梅花馥郁に咲き乱れ、六月の梅雨時には大玉の青梅となって、境内にその落音を響かせている。
因に、当山鬼子母神堂(表行堂-略称表堂)の扁額「荒行堂」は、利幹公の揮毫に依り、裏面には「文政二年巳卯閏四月」の銘が深刻されてある。
尚、当表堂は現皇后陛下の御実家である正田家が筆頭勧進を勤められ、明治年間後期に御寄進建立された堂宇である。合掌(境内掲示より)

遠壽院日久上人

祈禱中興遠壽院日久上人
合掌、当山第三世「遠壽院日久上人」は、寛文二年(一六六二)の誕辰にして、備前牛窓においてその幼少期を過す。その先祖は、征夷大将軍坂上田村麻呂と伝承される。日久上人の幼名「素仁」は、田村麻呂の諱名「利仁」より由来する。
上人は、後に出家して名を「長円」と改め、師を中山正善坊開基、円立坊二世正善院日遼上人に求む。
その後、中村檀林(現千葉県多古町)の学室に参学し、檀所満了帰山後、円立坊開基経王院日祥上人より宗祖直授正中山正嫡の祈禱相承を伝授され円立坊三世を継承、更には一千日の荒行を満行し、その驗力を仰がれていた。その間、身延流を始め各祈禱流派の奥義を極め、遂に今日伝播継承される「中山流祈禱法」として結集大成され、その行法次第を制定すると共に、祈禱相伝書二十七巻を著わし、中山流(遠壽院流)祈禱法の太祖であると同時に、日蓮宗祈禱修法中興の祖としてその偉業を仰がれている。
上人は、御自身示寂の直前まで祈禱行法の修練に尽力し、重要伝書である「中山本覚五神法」の著述制定の五日後、享保十二年(一七二七)五月十六日、六十五歳を以って安祥として霊山に旅立たれた。
円立坊第四世日行上人は、久師の偉業を慕い、その徳行を偲ぶため円立坊を「遠寿院」と改称し、師の院号を以って寺号とした。
日久上人大成の祈禱法は連綿相伝し、当院住職が代々相伝書の格護と、口訣相承の任を負い今日に至る、
尚、日久上人御廟所中央石塔には、祖先田村麻呂による東北征討により戦没落命した蝦夷地の人々の冥福追善を祈念するため、「東夷諸霊魂菩提」の文字が刻まれてある。
至嘱再拝(境内掲示より)

荒行堂旧水盤

荒行堂旧水盤由来
当山二十四世観量院日照上人は、徳川将軍家をはじめとして、紀州徳川家、清水、田安等御三卿の信任篤く、各家へ月祈禱のため参内し、各家当主、並びに家来、女中衆に至るまで、当病祈願の際は護符を与えるなどして、その験力を仰がれていた。また幕末維新の動乱期にあっては、孝明天皇の御妹内親王で、第十四代将軍家茂の正室となった和宮の支援を得て、村雲御所日尊法尼の協力により、京都に赴き、宮中にて天帝当病平癒を祈願した。その時の祈禱本尊が、当山表堂奉安の鬼子母尊神である。更に西海弘通を志し、荒廃した大牟田法華寺を再興するなど、広布の尽力多大であった。よって将軍家より、荒行堂水行用水盤、並びに井戸側の寄進を受けた。
水盤本体は、方形石盤を二体くり貫いたもので、正面に「一道清浄」が深刻されている。また水盤後面、井戸側正面には葵紋が浮彫りされている。
水盤側面に、
為御祈祷
御寄附
慶応乙丑九月
二十四世日照
の銘がある。
この水盤は大正年間まで、加行僧の水行のため使用された。尚日照上人は、その後西中山妙福寺へ進薫し、晩年は牛込円福寺に住して門弟の養成に生涯を捧げた。遠寿院誌(境内掲示より)

遠寿院の周辺図


参考資料

  • 「市川市内の寺院明細帳」
  • 「日蓮宗寺院大鑑」