奥之院|市川市若宮にある日蓮宗寺院

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奥之院|市川七福神の弁財天

奥之院の概要

日蓮宗寺院の奥之院は、市川市若宮にある寺院です。奥之院は、日蓮聖人が文応元年(1260)富木常忍(中山法華経寺初世日常聖人)の館に逃れてきた当地に建立した法華堂の地だといいます。法華堂は後に法華寺と改称、さらに中山の本妙寺と合寺して法華経寺となり、当地は奥之院と称されるようになったといいます。当寺の弁財天は市川七福神の弁財天となっています。

奥之院
奥之院の概要
山号 -
院号 奥之院
寺号 -
住所 市川市若宮2-21-1
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 市川七福神の弁財天



奥之院の縁起

奥之院は、日蓮聖人が文応元年(1260)富木常忍(中山法華経寺初世日常聖人)の館に逃れてきた当地に建立した法華堂の地だといいます。法華堂は後に法華寺と改称、さらに中山の本妙寺と合寺して法華経寺となり、当地は奥之院と称されるようになったといいます。

奥之院の縁起

奥之院(若宮館跡)
鎌倉時代の中頃、下総国の守護千葉頼胤に仕えた富木常忍は、八幡荘若宮と呼ばれたこの地に館を構え、幕府のある鎌倉との間を往復しました。そこで、たまたま布教に懸命だった日蓮と出会い、熱心な信者となったのです。
そうしたところから、文応元年(一二六〇)日蓮は、鎌倉の松葉ヶ谷で焼討ちにあったとき、この常忍を頼って若宮に難を逃れました。この時、常忍は館の中に法華堂を建て、日蓮を迎えて説法を願いました。さらに日蓮は、文永元年(一二六四)安房の小松原で東条景信に襲われた後も、若宮に身を寄せました。この若宮法華堂で開かれた日蓮の説法は、実に百回に及んだといわれます。この地が日蓮の「初転法輪の旧跡」とされるのは、この理由からです。このことで中山の大田乗明、曽谷の曽谷教信など、日蓮の信者になった人々は多く、また日蓮にまつわる数多くの伝承も残されています。
弘安五年(一二八二)日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺と称しました。この法華寺は後に中山の本妙寺と合体して法華経寺となり、日常を第一世とし、法華寺は奥之院と称されるようになりました。
いまでも土が高く盛られ、大樹の繁っている部分は、往時の館を取り囲む土塁の一部で、この館の跡を「若宮館跡」と呼んでいます。(市川市教育委員会掲示より)

奥之院の周辺図


参考資料

  • 「市川市内の寺院明細帳」