粟野八坂神社|元禄12年から続く庚申講
粟野八坂神社の概要
粟野八坂神社は、鎌ケ谷市粟野にある神社です。粟野八坂神社は、牛頭天王社と称して大永3年(1523)に創建したとされます。「鎌ヶ谷市史別巻」では、粟野の地名は文永10年(1279)の史料から確認される点、異例の立地(村落の外れで、かつ民家の少ない地に立地)していることから、大永3年(1523)は、村内の他地域から移転して、改めて奉斎した年代ではないかと推定しています。当地の庚申講は元禄12年(1699)から現在に至るまで続けられ、庚申塔群と共に鎌ケ谷市文化財に指定されています。
社号 | 八坂神社 |
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祭神 | 武速須佐男命 |
相殿 | - |
境内社 | 天満神社・三峰神社・古峰神社・金毘羅神社・浅間神社・大杉神社 |
住所 | 千葉県鎌ケ谷市粟野208 |
祭日 | 例大祭7月15日 |
備考 | - |
粟野八坂神社の由緒
粟野八坂神社は、牛頭天王社と称して大永3年(1523)に創建したとされます。「鎌ヶ谷市史別巻」では、粟野の地名は文永10年(1279)の史料から確認される点、異例の立地(村落の外れで、かつ民家の少ない地に立地)していることから、大永3年(1523)は、村内の他地域から移転して、改めて奉斎した年代ではないかと推定しています。
千葉県神社名鑑による粟野八坂神社の由緒
創建年代不詳。往時、村人が京都八坂神社の御分霊を勧請鎮座、祭祀を営んだのが当社のはじめと伝承す。境内に元禄一二年建立の庚申塔があり、また民子の禁忌として、胡瓜を作らず食べずの慣習が未だに現存し、信仰と伝統の古さを思わせる。例祭は天王祭と称し、市内唯一の神幸祭を、古例に則り奉仕する。悪疫消除・健康守護の神徳を蒙ろうとする信者が多い。近郷の著名な社である。(千葉県神社名鑑より)
「鎌ケ谷市史(上巻)」による粟野八坂神社の由緒
八坂大神-粟野村-
粟野村字天王前に所在する同村の鎮守である。現在は、通称「天王様」とよばれているが、天保八年の「宝泉院寺柄書上」にも「牛頭天王」と記されているので、こちらが近世期の名称とみてよい。大永三年(一五二三)の創立と伝えられている。境内社には天満神社がある。氏子戸数は三五戸である(以上「県神社明細帳」)。佐津間村宝泉院が別当寺であった。一般に、牛頭天王は疫病に対する神とされており、この神社が鎮守として祀られていることは、粟野村の起源と関連があるものと考えられる。(「鎌ケ谷市史(上巻)」より)
「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」による粟野八坂神社の由緒
八坂神社
粟野字天主前二〇八番地に鎮座する。旧村社で一般には「天王様」と呼ばれる。かつては八坂大神といい、祭神として素戔嗚命を祀ったが、現在は武速須佐男命とする。
境内社として、天満神社・三峰神社・古峰神社・金毘羅神社・浅間神社などがある。
神社の氏子総代は四名で、現在は四年くらいの任期で務めるが、戦前には九軒組という本家筋の九軒が、ほぽ世襲的にこれを務めた。(「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」より)
「鎌ヶ谷市史別巻」による粟野八坂神社の由緒
粟野はすでに、文永十年(一ニ七九)の「関東下知状」(『獅子』資料編Ⅲ・上)にその名がみえる古村であるが、現在の集落景観からみると、中世村落としては異例の立地であり、一六世紀前半の戦国時代後半に、村内のほかの場所から現在地へと移り、合わせて鎮守として八坂神社を祀ったとすると、合理的と思われる。(「鎌ヶ谷市史別巻」より)
粟野八坂神社所蔵の文化財
- 粟野庚申講(鎌ケ谷市指定無形民俗文化財)
- 粟野庚申塔群(鎌ケ谷市指定有形民俗文化財)
粟野庚申塔群
粟野は、祭礼やオコモリなど昔から続く民俗的行事が多く残っていて、地域の結びつきの強い地区で、その中でも、庚申講は、形を変えながらも江戸時代から現在まで継承されています。
そして、庚申講により、江戸時代前期の元禄12年(1699)から314年間途切れることなく庚申塔が建てられ、しかも文化12年(1815)から現在までの間(1845年と1850年をのぞく)は、5年おきに1基という規則性を守って建てられています。このことは、全国的にみても珍しい事例です。
粟野の庚申塔は、現在、八坂神社境内に44基と粟野保育園の北西角の路傍に1木、合計45基建っています。そのうち文化12年以前に建てられて塔は、当時の流行を反映していて、一か所で様々な形態を観察できる資料としても非常に貴重です。(鎌ヶ谷市教育委員会掲示より)
粟野八坂神社の周辺図
参考資料
- 千葉県神社名鑑
- 「鎌ケ谷市史(上巻)」
- 「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」