豊作稲荷神社|鎌ケ谷市初富の神社
豊作稲荷神社の概要
豊作稲荷神社は、鎌ケ谷市初富にある神社です。豊作稲荷神社は、初富の開拓にあたり、開拓会社の社員で金物問屋の湯浅七左衛門が当地を開発、明治6年に湯浅七左衛門が京都伏見稲荷大社を勧請して当社を創建したといいます。湯浅七左衛門は当地振興に尽力、氏の寄付により明治19年には湯浅里小学校が開校、また湯浅氏が奉納した手水鉢は鎌ヶ谷市文化財に指定されています。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 宇迦之御魂大神 |
相殿 | - |
境内社 | 三峰神社 |
住所 | 千葉県鎌ケ谷市初富221-1 |
祭日 | 例大祭11月20日、4月20日 |
備考 | - |
豊作稲荷神社の由緒
豊作稲荷神社は、初富の開拓にあたり、開拓会社の社員で金物問屋の湯浅七左衛門が当地を開発、明治6年に湯浅七左衛門が京都伏見稲荷大社を勧請して当社を創建したといいます。湯浅七左衛門は当地振興に尽力、氏の寄付により明治19年には湯浅里小学校が開校、また湯浅氏が奉納した手水鉢は鎌ヶ谷市文化財に指定されています。
千葉県神社名鑑による豊作稲荷神社の由緒
明治初年、廃藩置県に因り、旧小金原の放牧場を時の政府により開拓、東京の湯浅某が開発の指導に当たり、各地より人を集め開拓を促進した。同氏はその時、京都伏見稲荷大神を勧請し当社を造営された。湯浅里の地名の起源でもあるという。(千葉県神社名鑑より)
「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」による豊作稲荷神社の由緒
豊作稲荷神社
初富字湯浅里ニ二一番地ノ一に所在する。明治六年(一八七三)五月十五日に、この地の開墾を行なった湯浅七左衛門が勧請したもので、京都伏見稲荷神社の分霊を奉還したものである。入道池の自治会員が氏子となっている。四月二十日と十一月二十日が祭日開いている。境内社に三峰神社がある。(「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」より)
豊作稲荷神社所蔵の文化財
- 額「絵馬(養蚕の図)」(鎌ケ谷市指定有形文化財)
- 手水鉢・鈴・額「豊作社」
額「絵馬(養蚕の図)」及び手水鉢・鈴・額「豊作社」
明治2年、明治新政府は幕府の馬の牧場であった広大な下総牧を廃止して、東京の職を失った人々の救済対策として、開墾事業を実施することを決定しました。この開墾を政府とともに担った豪商(開墾会社社員と呼んだ)のうち、金物問屋の湯浅七左衛門らが初富地区の開墾を担当しました。豊作稲荷神社は、開墾地の初富の農作物の豊作を願って湯浅が京都の伏見稲荷を勧請して、明治6年(1873)に建立したものです。ここには指定文化財が4点あり、手水鉢は湯浅氏が奉納したものです。鈴・「豊作社」額もこの年に作られ、奉納されたもので、額の裏面には多くの人名が記されており、豊作を切実な願いとしていたことがうかがわれます。大絵馬には、当時このあたりで行なっていたと思われる養蚕の様子が描かれています。
明治19年、湯浅の寄付により初富に開校した湯浅里小学校は、今の北部小学校の前身ともなりました。また、同氏は地元住民にも永く慕われたようで、小学校名にもなった湯浅里という小字名がこの付近に残っています。なお、湯浅氏以外の開墾に携わった豪商は草々に地元との関係は希薄になっていったようです。(鎌ヶ谷市教育委員会掲示より)
豊作稲荷神社の周辺図
参考資料
- 千葉県神社名鑑
- 「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」