初富稲荷神社|鎌ケ谷市初富本町の神社

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初富稲荷神社|鎌ケ谷市初富本町の神社

初富稲荷神社の概要

初富稲荷神社は、鎌ケ谷市初富本町にある神社です。初富稲荷神社は、明治2年から開始された初富の開墾を開墾会社が受託、開墾会社の大村五左衛門・加太八兵衛・湯浅七左衛門が、巨と伏見稲荷大社の分霊を請けて創建したといいます。分霊が初午に間に合わなかったことから、当社では例祭を初午ではなく二の午に行なうようになったそうです。当社に残る初富開墾関連資料は市文化財に指定されています。また境内の大師堂は、東葛印旛大師八十八ヶ所霊場12番です。

初富稲荷神社
初富稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 宇迦之御魂大神
相殿 佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四之大神
境内社 古峰神社・天満宮
住所 千葉県鎌ケ谷市初富本町1-4-2
祭日 例大祭4月15日、10月15日
備考 -



初富稲荷神社の由緒

初富稲荷神社は、明治2年から開始された初富の開墾を開墾会社が受託、開墾会社の大村五左衛門・加太八兵衛・湯浅七左衛門が、巨と伏見稲荷大社の分霊を請けて創建したといいます。分霊が初午に間に合わなかったことから、当社では例祭を初午ではなく二の午に行なうようになったそうです。

千葉県神社名鑑による初富稲荷神社の由緒

由緒に関する記載なし(千葉県神社名鑑より)

境内掲示による初富稲荷神社の由緒

初富稲荷神社は、初富地区開拓と共に、当地区の御守護と繁栄を願い、山城の国(現京都市伏見区)の、伏見稲荷大社より、御分神を遷奉申し上げ、氏神様として御鎮座、戴き時に、明治二年(西暦一八六九年)稲荷大神は、衣食住の大祖神として、五穀豊穣と又あらゆる産業の繁栄を拾い、物品の売買を盛んにし、商売繁昌の御神徳は、お稲荷様と云はれる程です。高徳なるお祭神を氏神様に穀いて居る各位には、家族共子孫の繁栄の為、信仰の原点、氏神信仰の道に精進され御神徳を頂いて下さい。
旧初富の地名の総鎮守様です。(境内掲示より)

「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」による初富稲荷神社の由緒

稲荷神社
初富字富岡(現初富本町一丁目四番二号)に鎮座し、祭神は保食命である。初富地区の開墾にともない、明治二年(一八六九)十月に京都伏見稲荷神社から、開墾会社の大村五左衛門・加太八兵衛・湯浅七左衛門により分祀され、創立されたものである。なお、伏見稲荷から請けた分霊が初午までに間に合わなかったため、この神社の祭は二の午に行なわれるのだという。境内社として日本武尊を祀る古峰神社があり、大村らによって稲荷神社と同時に栃木県の古峰神社から勧請された。このほか、菅原道真を祀る天神社も境内社として祀られている。また、東葛・印旛大師講第十二番札所が所在する。
神社の役員は宮総代一名と世話人数名で、これは区長と各自治会長とが相談して決めるが、自治会単位に選ばれるとは限らない。氏子は各自治会に入ると自動的に資格が得られるが、希望者のみとなっている(「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」より)


初富稲荷神社所蔵の文化財

  • 初富開墾関連資料(鎌ケ谷市指定有形文化財)

初富開墾関連資料

明治時代になり、新政府は、東京で窮民となった武士や町人らに対して、その対策と首都の治安維持を目的として、房総北部にあった旧江戸幕府の牧を開墾することを計画しました。鎌ヶ谷市の「初富」という地名は、その最初の開墾地ということと、開墾地が豊かになるように祈りを込めて付けられた名称です。そして、政府が設置した開墾局と開墾を請け負った開墾会社の監督のもと、東京から入植した窮民らによって開墾事業は進められていきました。しかし、開墾人たちの生活は大変厳しく、3年間保障されるはずだった食料の配給は、次第に支給を減らされました。また、毎年のように来る台風で農作物や住居も大きな被害を受け、病気等で多くの大人や子どもが亡くなるなど苦労の絶えないものでした。こうした状況の中でも、近隣の粟野村の人々が相撲興行を初富稲荷神社で行うなどして励ましたり、開墾人同士で農業の学習を行うなどして支え合って生活していました。一方、事業は開墾会社の解散により、明治5年(1872)に終焉を迎えますが、開墾人たちが与えられた土地以外の開墾地の多くは開墾会社社員に分配されてしまい、この土地の所有権を巡って両者の間で裁判も起こっています。
市内には前述の土地の所有権を巡る裁判記録など、開墾事業の様子やその後の状況を伝える歴史資料が多数残っています。いずれも初富開墾の歴史を知る上で欠かせない資料であることから、市の指定文化財に指定されました。(境内掲示より)

初富稲荷神社の周辺図



参考資料

  • 千葉県神社名鑑
  • 「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」