鎌ケ谷八幡神社|吉橋大師八十八所霊場
鎌ケ谷八幡神社の概要
鎌ケ谷八幡神社は、鎌ケ谷市鎌ケ谷にある神社です。鎌ケ谷八幡神社は、寛永年間(1624-1645)に木下街道の宿場として設置された鎌ケ谷の鎮守として寛永6年(1629)に創建したと伝えられます。鎌ケ谷村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、浅間神社など諸社を浅間神社など諸社を境内に遷しています。百庚申および庚申道標は鎌ヶ谷市有形文化財に指定されています。また境内の大師像は吉橋大師八十八所霊場43番です。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 譽田別命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷・天満宮・妙正大明神合殿、道祖神、浅間神社、三峰神社、古峰神社 |
住所 | 千葉県鎌ケ谷市鎌ケ谷1-6-1 |
祭日 | 10月15日、浅間祭7月1日 |
備考 | - |
- 鎌ケ谷八幡神社鳥居
- 鎌ケ谷八幡神社社殿
- 境内社稲荷天満宮妙正大明神合殿
- 境内子安観音・大師・道祖神合殿
- 境内社浅間神社
- 鎌ケ谷八幡神社合祀所
- 鎌ケ谷八幡神社百庚申
- 鎌ケ谷八幡神社境内青面金剛
- 境内社三峰神社・古峰神社
鎌ケ谷八幡神社の由緒
鎌ケ谷八幡神社は、寛永年間(1624-1645)に木下街道の宿場として設置された鎌ケ谷の鎮守として寛永6年(1629)に創建したと伝えられます。鎌ケ谷村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、浅間神社など諸社を境内に遷しています。
境内掲示による鎌ケ谷八幡神社の由緒
御由緒
当社の御祭神は、八幡大神と申上げ誉田別尊を奉祀する。
八幡信仰は九州の宇佐八幡宮に始まり、天平勝宝元年(七四九)東大寺大仏の完成を機に、東大寺の鎮守(手向山八幡宮)として都に進出し、平安京に都が遷ると(七九四)京都の石清水八幡宮に勧請された。朝廷の信仰も厚く、殊に永承元年(一〇四六)源頼信が八幡大神を清和源氏の氏神としたので頼朝時代には神々の中でも八幡大神のみが特に崇敬され「廻国雑記標註」にも記されてる様に広く武人に守護神として尊崇する様になった。
頼朝が鎌倉に幕府を開き、鶴ケ岡八幡宮を中心に祭政一致を理想として諸国に守護、地頭を置くに及んで中央より遠い地に補任された者ほど、源氏に因縁浅からぬ八幡大神を任地官衙の傍に勧請して一社を営んだ。
鎌倉幕府は延喜の制、下総小金五牧を踏襲し、新政のもと牧場野付の村に御家人、馬役人を配置執務せしめたが、これらの人々も朝夕兵馬の健全と武運長久を八幡大神に祈った。
鎌ヶ谷でもこの例に洩れなかったのであろう。当八幡神社もこうした八幡信仰の広がりを背景にして此の地に勧請されたものである。当社の創建年代は諸説あるも不詳、当地区は奈良、平安の昔より近世に至るまで世々天領なりしため差配宰領する者の交代屡々にして文書記録が任者と共に四散し、史実伝承は世情人心の変遷によって風化し、今俄に断定することはできない。
当社は古来兵馬守護の武神として信仰されたが、地元の人々の生活と結びついて勝運繁栄、子育て、安産の神として現在でも多くの人々の崇敬を受けている。
大祭は、十月十五日盛大に執行する。(境内掲示より)
千葉県神社名鑑による鎌ケ谷八幡神社の由緒
創建年代不詳。当社は延喜式の大結馬牧の後称小金原牧場の地内に鎮座し、旧官道鹿島道(別名銚子街道、今の木下街道)の要衝鎌ケ谷の宿にある。境内に徳川時代の熱烈な信仰を物語る庚申塔百基が現存し、また享保三年の年号を彫む石鳥居があり、「鎌ケ谷八幡宮」の神額を掲げる。今、市井の中に存るとはいえよく古態を残し、終日参詣者の絶えることがない。(千葉県神社名鑑より)
「鎌ケ谷市史(上巻)」による鎌ケ谷八幡神社の由緒
八幡神社-鎌ヶ谷村-
鎌ヶ谷村字本田に所在する同村の鎮守である。寛永六年(一六二九)の創立と伝えられ、同村成立時に勧請されたものと思われる。境内社には、稲荷・天神合祭社、浅間社がある。氏子戸数は一一四戸である(以上「県神社明細帳)。そのほかの来歴は不詳である。(「鎌ケ谷市史(上巻)」より)
「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」による鎌ケ谷八幡神社の由緒
八幡神社
鎌ケ谷字本田(現鎌ケ谷一丁目六番一号)に鎮座する。旧村社。譽田別命を祭神とし、寛永六年(一六二九)の創立と伝える。鳥居は享和三年(一八〇三)に寄進されたものである。境内社として宇賀魂命を祀る稲荷社と菅原道真を祀る天神社・木花開耶姫命を祀る浅間神社・妙正大明神などがある。なお、このうちの浅間神社は天保十四年(一八四三)の創立と伝えられている。また、吉橋大師講第四十三番札所、百庚申塔(天保十二、三年造立)がある。
氏子総代は五名で、大新田一名、中新田一名、宿二名、原一名からなる。この総代は正月十五日に行なわれるオビシャの席で決められる。この総代には特に決まった任期はなかったようである。また、八幡神社は広大な境内地を持っており、かつては境内にニ、三反の畑があって、小作に出していた事もあったという。現在も境内の一部を民家や店舗用に貸している。
この他に、昭和二十五年六月に、中新田(字地蔵前三七三番地)にあった浅間神社を八幡神社の境内に遷宮した。この神社は、享保十五年(一七三〇)の創立と伝えられている。(「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」より)
鎌ケ谷八幡神社の由緒
- 庚申道標(鎌ヶ谷市指定文化財)
- 百庚申
庚申道標
庚申道標は、正面に「青面金剛王」、右側に「寛政7卯年」、左側に「11月吉日」と陰刻文字で書かれています。台座左右にそれぞれ「東さくら道」「西こかね道」と書かれており、道標を兼ねていたものです。
現在は境内に建てられていますが、寛政7年(1795)11月、日光へと続く日光東往還へ通じる小金佐倉道と木下・行徳を結ぶ、木下街道の交わる十字路(現在の大仏十字路)塚上に建てられたものです。(鎌ヶ谷市教育委員会掲示より)
庚申道標
百庚申は、天保12年(1841)年11月から13年(1842)3月にかけて建てられたもので、青面金剛像を彫った刻線塔10基と文字を彫った文字塔90基で構成されています。百庚申は江戸時代後期におこり、数量によって多くの功徳を願う数量信仰の影響を受けて生まれたもので、下総地方を中心に流行したものです。(鎌ヶ谷市教育委員会掲示より)
鎌ケ谷八幡神社の周辺図
参考資料
- 千葉県神社名鑑
- 「鎌ケ谷市史(上巻)」
- 「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」