鎌ケ谷駒形大明神|鎌ケ谷市鎌ケ谷の神社
鎌ケ谷駒形大明神の概要
鎌ケ谷駒形大明神は、鎌ケ谷市鎌ケ谷にある神社です。鎌ケ谷駒形大明神は、江戸時代の小金牧士清田家第三代目勝定(玄蕃、源兵衛)が将軍の御前で悍馬を乗りこなせたことから褒章としてその悍馬を拝領、帰村途中に悍馬が暴れ回ったためやむなく馬を切り、首のみを持ち帰って、清田家墓地の脇に当社を奉斎したといいます。清田家は寛永6年(1629)に船橋市古作から移住していたものの、印西草深新田の開発に携わることになり、延宝4年(1676)草深新田へ移住したといいます。
社号 | 駒形大明神 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 千葉県鎌ケ谷市鎌ケ谷3-3 |
祭日 | - |
備考 | - |
鎌ケ谷駒形大明神の由緒
鎌ケ谷駒形大明神は、江戸時代の小金牧士清田家第三代目勝定(玄蕃、源兵衛)が将軍の御前で悍馬を乗りこなせたことから褒章としてその悍馬を拝領、帰村途中に悍馬が暴れ回ったためやむなく馬を切り、首のみを持ち帰って、清田家墓地の脇に当社を奉斎したといいます。
「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」による鎌ケ谷駒形大明神の由緒
駒形大明神
鎌ケ谷字西本田(現鎌ケ谷三丁目三番号)、江戸時代の小金牧士清田家の墓地に隣接して所在する。元は清田家が個人で祀ったものといわれ、次のような伝承がある。清田家第三代目勝定(はじめ玄蕃、後、源兵衛と改名)は馬術にすぐれていて、将軍の御前で見事に悍馬を乗りこなしたという。そして、この馬を賜わり帰村する途中、北方村(現市川市)あたりで馬がたけり狂ったため、やむなく切ってしまった。後に、小祠を作って冥福を祈ったのだという。(「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」より)
境内掲示による鎌ケ谷駒形大明神の由緒
駒形大明神
清田家は、江戸幕府の馬の牧場を管理する牧士に代々任じられていました。3代目の勝定は、馬術に大変優れていました。そのうわさは将軍にも伝わり、将軍の御前において気性の荒い馬に乗り馬場を3周することを命ぜられました。そして、見事に乗りこなした褒美にとその馬を賜りました。江戸からの帰り道、現市川市北方付近でその馬が暴れ、勝定を振り落とそうとしたため、身の危険を感じてやむなく馬を切り、首を持ち帰って、清田家の墓地に祠を建てて冥福を祈ったと伝えられています。
勝定は、延宝4年(1676)印旛郡草深新田(現印西市)の開発にも携わり、息子に牧士の職を譲った後に、同地へ移住しています。(鎌ケ谷市教育委員会掲示より)
鎌ケ谷駒形大明神所蔵の文化財
- 清田家の墓地
「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」による鎌ケ谷駒形大明神の由緒
江戸幕府はその軍事力を誇示し、全国支配を継続する一環として軍馬を安定的に確保するために直轄の牧を設けました。牧の管理は地元の有力農民から選ばれた牧士が中心となって行いました。清田家は、江戸時代初期から牧士を世襲し、13代にわたって牧の管理を行ってきました。清田家に伝わる史料(「草深清田家史料」)によると、清田家は寛永6年(1629)に葛飾郡古作村(現船橋市)より、この鎌ケ谷の地に移り住み、原地を開発したとあります。
近世の鎌ケ谷村は、木下街道の宿場として栄え、近隣の宿場への荷物の継ぎ立てを行う、交通で重要な場所の一つでした。行徳と木下の船着場をつなぐ道筋として木下街道が整備されたのは、寛永8年です。鎌ケ谷村も、このころには町並みが形成されて成立したと考えられています。鎌ケ谷宿成立時の町並みは、鎌ケ谷大仏墓地および鎌ケ谷八幡神社附近から延命寺付近までの範囲でした。(鎌ケ谷市教育委員会掲示より)
鎌ケ谷駒形大明神の周辺図
参考資料
- 「鎌ケ谷市史(上巻)」
- 「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」