中沢八幡春日神社|鎌ケ谷市中沢の神社
中沢八幡春日神社の概要
中沢八幡春日神社は、鎌ケ谷市中沢にある神社です。中沢八幡春日神社の創建年代等は不詳ながら、中沢郷の開発の当初から鎮守社として当地に奉斎されてきたと伝えられ、平将門の花った矢が当社神木に掛り、御神木の梢が炎上したとの伝承も残されています。明治維新後の社格制定に際し村社に列格、大正5年に火災により社殿焼失、同年に地内の子頭神社・高山神社・日枝神社・白旗神社・稲荷神社の五社を合祀し再建、再建に際し谷地川八幡神社の御神体を遷したといいます。
社号 | 八幡春日神社 |
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祭神 | 八幡大神、春日大神 |
相殿 | - |
境内社 | 子頭大神、白幡大神、駒形大神他3柱 |
住所 | 千葉県鎌ケ谷市中沢907 |
祭日 | 10月19日 |
備考 | - |
中沢八幡春日神社の由緒
中沢八幡春日神社の創建年代等は不詳ながら、中沢郷の開発の当初から鎮守社として当地に奉斎されてきたと伝えられ、平将門の花った矢が当社神木に掛り、御神木の梢が炎上したとの伝承も残されています。明治維新後の社格制定に際し村社に列格、大正5年に火災により社殿焼失、同年に地内の子頭神社・高山神社・日枝神社・白旗神社・稲荷神社の五社を合祀し再建、再建に際し谷地川八幡神社の御神体を遷したといいます。
千葉県神社名鑑による中沢八幡春日神社の由緒
創建年代不詳。昭和三五年、当社近くに「中沢貝塚」が見つかり、人骨と堀の内式・加曽利式等の土器多数、石斧他石器等を出土、古い時代から、神社を中心にして集落、が形成されていたことがわかった。平親王が市川大野に宮殿を造った際、当地に合戦があり、将門の射た火矢が神木に掛り、その梢を炎上したとの伝説もある。また当地中沢域の領主が近隣諸郷を治める傍ら、国司の命により国府所管社の神祭を差配、その御鍵を宰領が当社の社人に常時保管させた。よって世人は当社を「鍵持の八幡」というとの口碑もある。(千葉県神社名鑑より)
「鎌ケ谷市史(上巻)」による中沢八幡春日神社の由緒
八幡・春日神社-中沢村-
中沢村字中台に所在する同村の鎮守である。由緒・来歴などは不詳である。氏子の戸数は五五戸である(以上「県神社明細帳」)。同村の万福寺が別当寺であった。前掲元禄八年の「中沢村差出帳」によると、奉社免が二か所(反別二反余)、畑が五枚(反別三反)、草野が三か所付属していた。(「鎌ケ谷市史(上巻)」より)
「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」による中沢八幡春日神社の由緒
八幡春日神社
中沢字中台九〇七番地に鎮座する。旧村社。創立年代は不詳であるが、中沢郷の開発の当初から鎮守社としてこの地に祀られていたといわれる。この神社は大正五年(一九一六)二月十五日に火災により焼失し、同年十一月に区域内の子頭神社・高山神社・日枝神社・白旗神社・稲荷神社の五社を合祀して現在に至っている。祭神は誉田別命・大己貴命・大山祇命・大山咋命・源頼朝などで、一般には八幡様と呼ばれている。焼失後の八幡様は、谷地川の八幡様のお姿を遷したという。また、境内社の白旗神社は「権現様」ともよばれ、元あった祠の下によい清水がわき、これを呑むと長生きができると信じられ繁盛をしていたものだという。(「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」より)
中沢八幡春日神社の周辺図
参考資料
- 千葉県神社名鑑
- 「鎌ケ谷市史(上巻)」
- 「鎌ヶ谷市史資料編(民俗)」