猫の足あとによる千葉県寺社案内

小湊山誕生寺|日蓮宗大本山、鴨川市小湊にある日蓮宗寺院

誕生寺の概要

日蓮宗寺院の誕生寺は、小湊山と号し、日蓮宗の大本山です。誕生寺は、日蓮聖人自ら母梅菊女の病気平癒を記念して文永元年(1264)に建てられた荘厳道場堂に由来、日家上人(佐久間兵庫助重吉の子竹寿麿)が、日保上人(同甥長寿麿)と共に荘厳道場堂を聖人生家の地に建治2年(1276)移して高光山誕生寺と称して創建、日蓮聖人を開山とし、日家上人を二祖、日保上人を三祖としたといいます。明応7年(1498)の大地震大津波により堂宇坊舎ことごとく流出し当地へ移転、慶安元年(1648)徳川三代将軍家光より寺領70石の御朱印状を受領、近海航路の港門前町として栄えたといいます。日蓮聖人ご生誕の霊場です。

誕生寺
誕生寺の概要
山号 小湊山
院号 -
寺号 誕生寺
住所 鴨川市小湊183
宗派 日蓮宗
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -



誕生寺の縁起

誕生寺は、日蓮聖人自ら母梅菊女の病気平癒を記念して文永元年(1264)に建てられた荘厳道場堂に由来、日家上人(佐久間兵庫助重吉の子竹寿麿)が、日保上人(同甥長寿麿)と共に荘厳道場堂を聖人生家の地に建治2年(1276)移して高光山誕生寺と称して創建、日蓮聖人を開山とし、日家上人を二祖、日保上人を三祖としたといいます。明応7年(1498)の大地震大津波により堂宇坊舎ことごとく流出し当地へ移転、天正8年(1580)里見安房守義頼が四十石の田畑及び寺面海上十石を、更に慶長9年(1604)市川の地二〇石を、重臣正木大夫頼忠から寄進されていました。慶安元年(1648)徳川三代将軍家光より御朱印状を受領、近海航路の港門前町として栄えていたものの、元禄16年(1703)の大地震大津波により堂塔・僧侶も流失してしまいました。水戸家徳川綱条が水戸光圀公の追善のため七堂伽藍を建立したものの、宝暦8年(1758)の大火により焼失、以後再建を進め、現在は堂塔二十余を有す日蓮宗の大本山です。

「日蓮大聖人立教開宗七百五十年慶讃房州聖蹟巡り」パンフレットによる誕生寺の縁起

大本山誕生寺
ご生誕の霊場
日蓮聖人の御誕生と歯は梅菊女の蘇生延寿を記念して弟子の寂日房日家(興津城主佐久間重貞の弟)建治2年(1276年)に建立。明応7年(1498)、元禄16年(1703)の二度の地震海嘯で流出、宝永年間に現在の位置に移る。(「日蓮大聖人立教開宗七百五十年慶讃房州聖蹟巡り」パンフレットより)

境内掲示による誕生寺の縁起

当山はそのはじめ文永元年聖人自ら母梅菊女の病気平癒を記念して建てられた荘厳道場堂に濫觴し、建治二年直弟日家上人これを聖人生家の地に移して高光山誕生寺と呼ばれたことに始る。
その後明応七年の大地震海嘯の厄に遭って陥没、妙の浦の丘辺に移したが元禄十六年再度地震海嘯の天災をうけ現在の地に移った。
当山二十六代日孝上人水戸家の帰依をうけ七王伽藍を整えられたが宝暦年間大火あり仁王門を残し悉くが焼失した。雨落ち十八間四面総欅造りの祖師堂は天保三年(一八三二)より十年間の年月をかけて完成し、内陣中央に日蓮聖人像が安置されている。
古くは国守里見安房守、その臣正木太夫、水戸光圀、加藤清正等の帰依篤く、御朱印七十石、格式十万石、緋綱代乗輿独礼寺格の待遇をうけ、また相馬大作、太田資康等の隠棲が綴る多彩な歴史を蔵し、明治に入り有栖川家の御廟所も建てられている。堂塔二十有余、境内二万坪、現に日蓮宗大本山である。(境内掲示より)

境内掲示による誕生寺の縁起

誕生寺略縁起
千葉県が生んだ世界の偉人日蓮聖人は、ここ小湊に生まれました(一二二二)。聖人は自らの出生を「安房國長狭郡東條郷片海海人が子なり」(「本尊周蒼抄」)といわれ、聖人没後五十年頃の聖人伝「本門宗要抄」には「出生の処は安房国長狭郡東條小湊の浦の釣人権頭の子也」とあります。
誕生寺は隣村上総興津の豪族佐久間兵庫助重吉の子竹寿麿(日家)甥の長寿麿(日保)により建治二年(一二七六)開創され、日蓮聖人を開山とし、日家上人を二祖、日保上人を三祖とし、聖人誕生の地に建立されました。
しかし、明應七年八月(一四九八)大地震大津波があり堂宇坊舎ことごとく流出しましたので、祓崎の南端から現在の地に移りました。延宝八年(一六八〇)の記録「誕生寺寺法」によれば、境内地は南北三十二町(三、四五六米)東西二十町(二、一六〇米)とありますから関東屈指の大寺であったことがわかります。
天正八年(一五八〇)里見安房守義頼が四十石の田畑及び寺面海上十石を、更に慶長九年(一六〇四)市川の地二〇石を、重臣正木大夫頼忠より寄進しております。そして慶安元年(一六四八)徳川三代将軍家光公が御朱印によりこれを認められました。現在の特別天然記念物「鯛の浦」はこの「寺面海上十石」の寺領内のものであります。
この頃の小湊村は、七〇石の御朱印、海上十石の運送業権を背景にして近海航路の港門前町として栄え、人口もこの地方では最も大きな港町であったといわれます。
しかるに元禄十六年十一月(一七〇三)房総沖を震源地とする大地震大津波により、支院十坊、門前の人家百余戸が流失し僧俗四百八名が溺死する大災害に見舞われました。勿論当山の被害は甚大なものでありましたが、幸い水戸の徳川綱条公(粛公)がご先祖黄門光圀公の追善のため七堂伽藍を一基建立され、忽ち旧に復することが出来ましたが、それも束の間、宝暦八年(一七五八)大火により、三光殿(釈迦堂、祖師堂、本堂)悉くを焼失しました。現在の雨落十八間四面総欅造りの大祖師堂は昭和六年に、夫々十万人講、五十万人講等の全国勧募により完成したものであります。
又、明治に入り東宮殿下(大正天皇)ご脳平癒の御祈祷所となり、同時に有栖川宮熾仁殿下により有栖川家御霊堂(竜王殿)が境内に建立(明治二十三年)されて、御皇室とのご縁も結ばれました。
そして今、長い間海辺特有の風雨に耐えて損傷甚だしい諸堂宇を、五十万人講の全国勧募により、逐次再建整備しつつあるところであります。現に本師殿宝塔及び宝蔵の新築祖師堂の大改修、新宝物館の建設等は終り、引続き新本堂の建立、庫裡の改修、廻廊門塀等の諸工事を進行中であります。
願くば当山に詣でる有縁の方々が、聖人誕生の霊場を顕彰するこの百年に一度の浄業に、五十万人講の一人としてご結縁下さることを願ってやみません。(境内掲示より)

「安房郡誌」による誕生寺の縁起

誕生寺
誕生寺は元高光山日蓮誕生寺と稱し、湊村小湊祓町にあり。日蓮聖人誕生の霊地にして、日蓮宗一致派の本山なり。今小湊山誕生寺と稱す。
末寺百二十五箇寺を有す。三面は翠緑滴る小湊山に圍續せられ、西方の一面開けて海に面す。境内一町七段一畝十四歩。中央に祖師堂あり。間口十四間半奥行十四間半の大伽藍にして、中に日蓮聖人の像を安置す。その左側に本師堂あり。釋迦佛を安置す。運慶の作なり。方丈は祖師堂の背後にあり。建治二年二月十日、日蓮上人の徒弟日家奥津城主佐久間重貞と共力し、上人慈母蘇生祈願の遺跡即ち蓮華潭の邊に精舎を創建し、高光山誕生寺と號す。天正八年地頭正木賴忠、本村に於て田畑四十石海上十石を寄進す。慶長九年四月十六日、正木賴忠、里見義康の位牌料として二十石寄進す。寺領合せて七十石となれり。明應七年(紀元二千百五十八年)八月廿三日地震大海嘯の爲め土地陥沒、精舎も亦悉く沒す。朱印も共に失ふ。乃ち之を妙の浦の岡に移す。當時朱印を失ふものは其の効を失ふ規例なりしも、天下太平國家鎮護の祈願道場として、慶安元年七月十七日、将軍徳川家光より再び朱印を賜はり、緋綱代輿獨禮の待遇を受けたり。元禄年間徳川光圀の敬信淺からず、中興の大檀那たり。元禄十六年十一月廿一日、再び海嘯の災害に罹り現地に轉ぜり。伽藍もと廣大なりしが享保中火災に罹り烏有に歸せり今の祖師堂は天保年間に竣功せしものなり。近時大に修飾を加へ堂宇庭園の如き觀るべきもの多く遠近より来賽するもの極めて多し。(「安房郡誌」より)

誕生寺所蔵の文化財

  • 誕生寺仁王門一棟(千葉県指定有形文化財)
  • 木造日蓮聖人坐像(祖師堂安置)(鴨川市市指定有形文化財)
  • 太田稲荷堂の彫刻

誕生寺仁王門一棟

誕生寺の七堂伽藍は、江戸中期の宝暦八(一七五八)年の大火によって仁王門を除く他の建物は全て焼失してしまいました。焼失をまぬがれた現在の仁王門は、江戸前期の宝永三(一七〇六)年二十六世大中院日孝上人の代に水戸徳川家の助力を得て建立されたと伝えられるものです。
江戸中期の寛政三(一七九一)年の銘を持つ「誕生寺絵図」中に見られる仁王門が相当すると考えられます。
間口約一四・八メートル、奥行き約五・八メートルの五間三戸瓦葺重層門は、県内では最大規模のものです。軸部は白木造(ケヤキ)、組物は下層では和様三手先、上層では唐様三手先、中備はいずれも本蟇股と支輪に波・雲の彫刻が用いられています。
上層に見られる般若の彫刻は左甚五郎の作と伝えられ、正面左右の脇の間には上総の仏師松崎右京大夫の作と伝えられる仁王像が安置してあります。
創建時の様子をとどめた絵様及び彫刻など、様式的にも、歴史的価値の高い貴重な建造物です。(千葉県教育委員会・鴨川市教育委員会・小湊山誕生寺掲示より)

太田稲荷堂の彫刻

太田稲荷堂の向拝には、三代伊八が製作した竜が飾られています。三代伊八は初代伊八の孫にあたり、この竜を製作した文久三年(一八六三)当時は四十七歳の年齢でした。
波間に複雑に身をくねらせる竜の姿は、三代伊八の作風の特徴をよく示しています。この竜の裏面には、大小の魚が波間に泳ぐ様子が彫られています。寺社の彫物にこのような魚がモチーフとして用いられるのは、あまり例がありません。誕生寺周辺の小湊五t九がもともと漁業が盛んな土地柄であったために、漁の対象となる魚が彫られたのかもしれません。
裏面の刻銘には、願主として上総国夷隅郡芳賀村(現在の勝浦市)の君塚勘解由左衛門、世話人として房州長狭郡花房村の庄司六左衛門の名前が記されています。この二人の名前からも、広い範囲の真とによって支えられて来た誕生寺の歴史の一端がうかがえます。(境内掲示より)


誕生寺の周辺図