鏡忍寺|日蓮宗本山、鴨川市広場にある日蓮宗寺院

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小松原山鏡忍寺|日蓮宗本山、小松原の法難の地

鏡忍寺の概要

日蓮宗寺院の鏡忍寺は、小松原山と号し、日蓮宗の本山です。鏡忍寺は、文永元年(1264)鴨川市花房に滞在していた日蓮聖人が檀信徒天津城主工藤左近丞吉隆の招きに応じて天津へ出向の際、当地の領主東條左衛門景信に襲われ、法弟鏡忍坊をはじめ、救援に向かった工藤吉隆などが殺害され、聖人自身も重傷を負い「小松原の法難」に遭った地に、工藤吉隆の子日隆法師が弘安4年(1281)に建立したといいます。開山は日蓮聖人、2世日暁(鏡忍坊)・3世日玉(工藤吉隆)・4世日隆(工藤吉隆の子)と、法難に殉じた法弟を歴世とする、小松原法難の霊場で日蓮宗の本山です。

鏡忍寺
鏡忍寺の概要
山号 小松原山
院号 -
寺号 鏡忍寺
住所 鴨川市広場1413
宗派 日蓮宗
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -



鏡忍寺の縁起

鏡忍寺は、文永元年(1264)鴨川市花房に滞在していた日蓮聖人が檀信徒天津城主工藤左近丞吉隆の招きに応じて天津へ出向の際、当地の領主東條左衛門景信に襲われ、法弟鏡忍坊をはじめ、救援に向かった工藤吉隆などが殺害され、聖人自身も重傷を負い「小松原の法難」に遭った地に、工藤吉隆の子日隆法師が弘安4年(1281)に建立したといいます。開山は日蓮聖人、2世日暁(鏡忍坊)・3世日玉(工藤吉隆)・4世日隆(工藤吉隆の子)と、法難に殉じた法弟を歴世とする、小松原法難の霊場で日蓮宗の本山です。

「日蓮大聖人立教開宗七百五十年慶讃房州聖蹟巡り」パンフレットによる鏡忍寺の縁起

本山鏡忍寺
小松原法難の霊場
文永元年(1264年)小松原法難で、弟子の鏡忍坊と工藤吉隆公を失った。吉隆公の子、長栄坊日隆上人が、鏡忍、吉隆の霊を弔って弘安四年(1281年)に建立。寺の名は両上人の法名をとって聖人が命名。(「日蓮大聖人立教開宗七百五十年慶讃房州聖蹟巡り」パンフレットより)

「安房郡誌」による鏡忍寺の縁起

鏡忍寺
東條村廣場小松原に在り。因て小松原山と號す。日蓮宗一致派の本山たり。境内八千七十七坪。四邊細沙平坦にして古松鬱蒼たり。
由緒
人皇第八十九代亀山院文永元年甲子十一月、日蓮上人花房の青蓮坊に居りけるが、檀信徒天津城主工藤左近丞吉隆、其の臣淺倉宗吾・山唯喜内を遣はして日蓮を迎ふ。日蓮請に應じ、天津に至らんとし十一日領主東條左衛門景信の館前を過ぐ。景信素より浄土宗を信じ、日蓮を擯出せし後も、常に怨敵の思をなし、其の臣東條内蔵人と謀り、士卒百人小松原に潜伏して日蓮を襲ふ。時に鏡忍坊・浄圓坊・乗觀坊左右五六人共に随行て此の地に至る。伏兵蜂起して日蓮を圍む。吉隆急報に接し、仝族吉廣其の臣淺倉宗吾・山唯喜内等を始め郎黨五六十人馳せ来つて之を授く。景信が兵少しく退く。日蓮僅かに身を以て免かる。然れども寡は衆に敵し難く、吉隆討死し、鏡忍坊も亦殺さる。乗觀坊は微傷を受け吉廣重創を負うて退く。景信勢に乗じて馳せ来り、日蓮を斬て其の額を傷く。偶々景信馬より落ちて悶絶す。東條内蔵人大に駭き景信を扶けて退く。故に日蓮幸に虎口の危難を免れたり。
濱荻の住人北浦忠吾・仝忠内日蓮を扶護して清澄山に至つて相分る。淺倉宗吾・山唯喜内等其の主工藤吉隆及び鏡忍坊の死屍を東條の地に葬る。吉隆死に臨み、日蓮の無恙を喜び、且我が妻分身、若し男子ならば法子の末席に加へられよと言畢つて瞑す。日蓮之に因て吉隆を法弟となし、妙隆院日玉上人と號す。土人後に塚を築きて之を葬る。上人塚と稱す。日隆法師(吉隆の子日蓮の弟子となり日隆と改む、十七歳にして身延山に入り修業。)弘安四年辛巳三月日蓮の命を受け安房國に歸り、忠吾・忠内等と相謀り、鏡忍坊の討たれたる地に就て一寺を建立す。之を日蓮に報ぜん爲日隆再び身延山に登り、日蓮遭難の時袈裟を掛け給ひし松樹を以て日蓮の像を刻し、日蓮自ら開眼を爲す。即ち之を鏡忍寺に安置し、朝夕奉仕すること猶生に事ふるが如し。墓上一古松あり。日蓮親栽以てその墓表となせしものなりと。
高祖日蓮を開山とし、日暁・日玉・日隆・歴世崇敬是れ所謂宗祖日蓮大難の霊地なり。本宗四十四箇寺中本山の一なり。經歴既に六百年、開祖より今日に至るまえ三十四世、就中十二世日然、十三世日領、廿三世日長、廿七世日源、三十世日集の如き特に其の法續顯著なりと云ふ。
境内祖師堂の前に鏡忍坊日暁上人の墓あり。鏡忍坊は初め源賴家の麾下に屬し、武名赫々たり。然るに宿縁薫發、深く塵世の夢幻を觀じ、文永元年四月八日を以て日蓮の法弟と爲る。時に歳六十有餘小松原遭難の際、單身敵兵を防ぎ終に亂軍中に斃る。日蓮深く之を憐み、親ら松樹を植ゑ、以て墓標となす。世に之を菩提松と號す。創立は日蓮を以て開祖と爲し、日暁其法難に死するを以て二祖とし慈父日玉を以て三祖となし、日隆四祖となる。(「安房郡誌」より)

鏡忍寺所蔵の文化財

  • 富木殿御書(一幅)(千葉県指定有形文化財)
  • 鏡忍寺祖師堂の彫刻(鴨川市市指定有形文化財)

富木殿御書(一幅)

この文書は日蓮上人自筆の消息文で、日蓮上人が文永十一年(一二七四)に初めて身延山(山梨県)に入山する際の様子を、下総中山(現在の市川市)にいた富木常忍宛に伝えたものです。
この文書が中山法華経寺に所蔵されていたことは、永仁七年(一二九九)日常(富木常忍)によって記された「常修院本尊教事」や、康永三年(一三四四)日祐によって記された「本尊聖教録」に記載されていることから確認できます。
その後、どのような経緯で、鏡忍寺に移されたかは明らかではありません。(千葉県教育委員会・鴨川市教育委員会掲示より)

鏡忍寺祖師堂の彫刻

鏡忍寺祖師堂内の欄間三面には、酒を飲んで陽気に遊ぶ七福神の生き生きとした姿が巧みに表現されています。
中央の欄間には、鯛を釣り上げた恵比寿が弁財天の弾く琵琶の音にあわせて楽しげに踊り、福禄寿が唐子の戯れる姿が彫られています。
右側の欄間では、寿老人と布袋がお酌のやりとりをしています。左では、まだまだ飲み足りない毘沙門天が、酔いが回って眠り込んでしまった大黒天の耳を引っ張って起こそうとしています。
この欄間三面には、現代の酒の席でもしばしば見かけるような光景が表現されていることが見て取れます。このような七福神の姿は、鏡忍寺を訪れる多くの参拝者の目を楽しませていたに違いありません。
製作年は不明ですが、七福神と唐子を絶妙に配置する構成力と、個々の人物表現に高い技量が発揮されていることから、初代伊八三〇代前半の製作になるものと推測されます。(鴨川市教育委員会掲示より)


鏡忍寺の周辺図