清澄寺|日蓮宗大本山、鴨川市清澄にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる千葉県寺社案内

千光山清澄寺|日蓮宗大本山、日蓮聖人修行の寺

清澄寺の概要

日蓮宗寺院の清澄寺は、千光山と号し、日蓮宗の大本山です。清澄寺は、不思議法師が刻した虚空蔵菩薩像を祀り宝亀2年(771)に開基、慈覚大師円仁が僧坊12祠堂25を建立し、房総第一の大寺としたといいます。天福元年(1233)には小湊出身の日蓮聖人が当寺に入門、建長5年(1253)には当山旭の森で立教開宗の第一声をあげています。その後徳川家康公の帰依を得た真言宗の僧侶仲恩坊頼勢法印が当寺を再興、10万石の格式と、寺領500石の御朱印状を受領、京都醍醐三宝院別院となり本山格の寺院だったといいます。明治維新後の廃仏毀釈や台風による被害などもあり衰微、昭和24年に日蓮宗に改め、宗祖日蓮聖人出家得度・立教開宗の霊跡、日蓮宗大本山となっています。当寺本尊の虚空蔵菩薩像は、霊巌山圓蔵寺(会津柳津町)・村松山日光寺(茨城東海村)と共に日本三大虚空蔵の一つとされ、また当寺観音堂は、安房国札観音霊場第17番札所となっています。東国花の寺百ヶ寺です。

清澄寺
清澄寺の概要
山号 千光山
院号 -
寺号 清澄寺
住所 鴨川市清澄322-1
宗派 日蓮宗
縁日 4月27・28日立教開宗会、7月21・22日妙見宮大祭、9月13日虚空蔵菩薩大祭
葬儀・墓地 -
備考 -



清澄寺の縁起

清澄寺は、不思議法師が柏樹を伐採し彫刻した虚空蔵菩薩像を祀り宝亀2年(771)に開基、天台宗第3代座主慈覚大師円仁が僧坊12祠堂25を建立し、房総第一の大寺としたといいます。天福元年(1233)には小湊出身の日蓮聖人が当寺に入門、諸佛坊道善法印の訓導を受け、虚空蔵菩薩像に願を掛け、建長5年(1253)には当山旭の森で立教開宗の第一声をあげています。弘治3年(1557)領主里見安房守から寺領として岡田・小浦の二村を与えられ、天正2年(1574)には大多喜城主正木大膳亮憲時から水田二十八石の寄進を受けていました。徳川家康公の帰依を得た真言宗の僧侶仲恩坊頼勢法印が当寺を再興、10万石の格式と、寺領500石の御朱印状を受領、京都醍醐三宝院別院となり本山格の寺院だったといいます。明治維新後の廃仏毀釈や台風による被害などもあり衰微、昭和24年に日蓮宗に改め、宗祖日蓮聖人出家得度・立教開宗の霊跡、日蓮宗大本山となっています。

「日蓮大聖人立教開宗七百五十年慶讃房州聖蹟巡り」パンフレットによる清澄寺の縁起

大本山清澄寺
立教開宗の霊場
日蓮聖人が天福元年(1233年)12歳で仏門をたたき、16歳で出家得度し、32歳で初めて南無妙法蓮華経と唱えられた立教開宗の霊場。修行中の聖人が「智者トナシタマヘ」と願をかけられた虚空蔵菩薩が安置されている。(「日蓮大聖人立教開宗七百五十年慶讃房州聖蹟巡り」パンフレットより)

境内掲示による清澄寺の縁起

当山は、天台宗の寺として開創され、平安時代に至って、慈覚大師円仁が僧坊十二、祠堂二十五を建て、房総第一の大寺となりました。江戸時代の初期、仲恩房頼勢法師が家康公の帰依を得て再興し、これより真言宗の寺となり、格式十万石、朱印五百石を賜わり、本山格の寺になりました。また、京都醍醐三宝院の別院となったため菊花の御紋章を許されました。
本尊の虚空蔵菩薩は、智慧福徳の菩薩として名高く、その像は日本三大虚空蔵の一つです。
日蓮宗の開祖日蓮聖人は、天福元年(一二三三)五月十二日十二歳のとき、小湊からこの寺に入り、道善法師に師事し、出家得度しました。勉学修業に励んだ聖人は更に諸国に出て、各宗の奥義を学び、建長五年(一二五三)四月二十八日三十二歳のとき当山旭の森で立教開宗の第一声をあげました。
聖人ゆかりの当山は、昭和二十四年四月、日蓮宗に改宗しました。(境内掲示より)

境内掲示による清澄寺の縁起

千光山清澄寺は、宝亀二年(七七一)不思議法師が自ら刻まれた虚空蔵菩薩の御像を祀って開基されその後平安時代に来って僧坊・堂宇を建立整備して開創された房総第一の天台宗の大寺でありました。
その後約八百年を経て江戸時代の初期徳川家康公の帰依を得た仲恩坊頼勢法印が恩賞として賜った十万石の格式・五百石の朱印・醍醐三宝院宮別院の称号(このため菊花御紋章を許さる)及び本山格式等を背景に再興し、その時以来真言宗智山派の法脈に属して約三百八十年続いてまいりました。
しかし大正時代になると廃仏毀釈の嵐の余波と此地を襲った台風のため、衰微の極に達していた當寺の起死回生をはかるには日蓮宗に転宗帰属する以外に道無しとする機運が高まりました。
幾多の困難や曲折を凌いで遂に改宗の大事が決定し、昭和二十四年二月十六日を以って宗祖日蓮聖人出家得度・立教開宗の霊跡、日蓮宗大本山清澄寺となったのであります。
本堂正面には智慧福徳願望成就の利益をお授け下さる名高い虚空蔵菩薩の尊像が安置されています。(境内掲示より)

「安房郡誌」による清澄寺の縁起

清澄寺
千光山清澄寺は天津町清澄妙見山の山嶺に近き所に在り。眞言宗新義派に屬し、智積院の末寺たり後は妙見山を負ひ、前は深谷に望み、四境幽邃なり。境内老杉三株、老樟兩株あり。樟樹大なるもの周二十尺、杉樹大なるもの周り四十二尺、庭園は自然の山水を借りて之を造る。雅にして趣あり。山は海抜一千二百七十三尺、四邊の深嶺を俯瞰し鬱蒼たる樹林の間より遥かに太平洋の蒼波を望むべく眞に仙境に入るが如き心地す。本尊は虚空蔵菩薩、境内一萬八千百三十九坪あり。
由緒
寺傳に曰く、神武天皇の御宇天富命を祀る。(本堂の紋三玉を用ふるは之が爲なり。又清澄と名づけたる由来は山頂に碧池あり、霧雨ありと雖も混濁せず、よりてかく名うけしならん池邊の大柏樹夜々芳芒を放つ、依て千光山と稱すと。)弘仁天皇の御宇寶龜二年辛亥九月、不思議法師此處を經歴の日、一株の老柏樹を伐りて虚空蔵菩薩の像を手彫し、假に小堂を營みて之を安置す。爾来靈場となれり。承和三年丙辰仁明天皇の御代慈覺大師来つて不動明王の像を刻し、二十五の祠殿及び十二の僧坊を修し、當山を中興す。寺の四面峯巒圍續、独鈷山・靈地山・鶏毛山・寶珠山・如意山・金剛山等の號あるは、皆大師の命する所なり。堀河天皇の嘉保三年伽藍僧坊灰燼に歸せしが國司源親元之を再建す。今の殿堂是なり。承久二年庚辰北條政子輪蔵を建て、一切經を蔵む。以降高緇名僧踵いて修持す。就中諸佛坊道善法印の如きは日蓮の師たり。日蓮幼時當山に登り、教を道善坊に受くること多年、其訓導に依つて學業日に進み、天福元年十二歳の時、祝髪して戒を受け、深く當寺の虚空蔵菩薩に祈誓し、建長癸丑年四月剏めて能く一宗を立て、法華の開祖と爲る。豈偉ならずや。
弘治三年里見安房守より岡田・小浦の二村を以て寺領とせらる。天正二甲辰年二月大瀧城主正木大膳亮憲時、水田二十八石を寄附し、元和四年八月臺命に依り忠恩坊賴勢を以て住職となし、十萬石の格式を與へらる。師は學博く徳高く、實に當山中興の祖たり。殊に徳川家光、虚空蔵菩薩の秘法を修められ、時服拝領仰出されたりと云ふ。慶長十五年庚戌九月廿一日、里見忠義百六十六石餘の地を寄進す。徳川氏に至つて百七十七石餘を給す。
寛政中住持明範たるもの、夙に山林繁殖の道を講じ、人をして力を種藝に盡さしむ。此に依て寺領門前、到る所杉檜鬱蒼、白日猶暗きに至る。
此の地に住する者凡そ百戸、職業樵に非ざれば、即ち戸障子・板戸等の建具を製造し、且旅舎を兼ぬるものあり。之を販賣して米塩の資となす。是亦明範の賜と云ふ可し。
本堂は銅瓦を以て之を葺き、間口十五間奥行十間の大伽藍にして、摩尼殿の三字を掲ぐ。仁王門は間口四間半奥行二間半。本堂と共に清人傳氏諱は王露の書する所の扁額を掲ぐ。境内には此の他庫裡鐘樓・明星井・表門・青銅寶篋印塔等の建物あり。(「安房郡誌」より)

清澄寺所蔵の文化財

  • 清澄寺中門(千葉県指定有形文化財)
  • 清澄寺宝篋印塔(千葉県指定有形文化財)
  • 清澄寺石幢(千葉県指定有形文化財)
  • 梵鐘(明徳三年在銘)(千葉県指定有形文化財)
  • 清澄の大スギ(千年杉)(国指定天然記念物)

清澄寺中門

この門は、「中門」と呼ばれ、清澄寺縁起によりますと、正保四年(一六四七)に創建され、天保八年(一八三七)に改修されています。
構造形式は、一門一戸の四脚門で、屋根は茅葺きの切妻りです。主柱は冠木をもってつなぎ、主柱上には平三斗を置き、実肘木で妻虹梁をささえ、その上に背の低い大瓶束を立て、更に平三斗を於いて棟梁をかけ、正面冠木の上の虹梁中央にのみ本蟇股を置いてあります。
主柱の左右に袖板をつけ、正面右側にのみ通路用の小さな扉がつけてあります。
軒は二軒につくり、妻軒については、深くしてあり耐湿、防風への効果を考慮していることがうかがえます。
様式は、和様を主とした折衷様式で、江戸時代初期の建築物としては、彫刻などの装飾も少なく簡素な美しさがあります。この美しさは、天保年間の改修の際も損なわれることもなくのこっています。
昭和三十九年四月二十八日に、千葉県指定有形文化財となりました。(境内掲示より)

清澄寺宝篋印塔

この宝篋印塔は、高さ157㎝で、地元の嶺岡山系で算出する蛇紋岩を用いて作られています。
塔身の四面には、正面が半肉彫りの金剛界大日如来坐像、他の産面は、開敷華王、無量寿、天鼓雷音の各如来種子が刻まれています。
基礎には応永十四年(1407)の紀年銘が刻まれており、造立年代や趣旨が明確であることから、県内の宝篋印塔の標識的遺品として位置づけられています。
塔身の上に乗る笠の隅飾りがやや外傾し、相輪は線刻え九輪が表現されています。反花や請花等にも時代相がよく示されています。
なお、本塔はその形態から関西様式に類別されます。制作には、大和の石工集団・橘派が関わった可能性が想定されています。(鴨川市教育委員会掲示より)

清澄寺石幢

大堂の裏山(妙見山)の頂上附近の平地に、石幢が建てられています。
石幢は、寺院の堂内に掛ける一種の旗の形から考えられたもので、起源は中国といわれ、わが国では鎌倉時代初期から造られるようになりました。構造形式からみると、単制のものと複制のものがありますが、当寺のものは単制に属し、高さ二・〇八メートルの八面幢です。
銘文によると、応永三十一年(一四二四)に建てられ、経典を納めたことがわかります。近年まで、当寺で得度した僧の髪を納めたところから「髪塚」とも呼ばれています。
保存状態が良く、台座の複弁の反花や格狭間の彫りに室町時代の特徴をあらわし、その美しさに、創建当時のできを、いまよくしのぶことができます。昭和四十年四月二十七日千葉県指定有形文化財になっています。(境内掲示より)

梵鐘(明徳三年在銘)

この梵鐘の大きさは、高さ123.2cm、口径66.7cmで、三段組みで鋳造されています。県内え文化財に指定されている梵鐘では、二番目に大きいものです。
乳は4段5列あり、鐘の上部にある上帯には優美な飛雲文を、下部にある下帯には、唐草文を施しています。2個の撞座と竜頭は並行して位置していますが、ともに壊れていて元々あった蓮華紋様は不鮮明です。
池の間の第一区には「房州千光山清澄寺者」で始まる銘が刻んであります。第三区には「明徳三年八月」(1382)の年紀と、当時の清澄寺の別当が前大僧正法印和尚弘賢で、源朝臣清貞、比丘明了、比丘恵闇が旦那となって寄進したことや、この梵鐘の鋳造に携わった「武州塚田道善」の名前が刻んであります。
銘文には、清澄寺が慈覚大師の草創になることや、その時以来の梵鐘が壊れてしまったために、新たに鋳造が行われたことなどが記されています。(鴨川市教育委員会掲示より)


清澄寺の周辺図