塚崎神明社|柏市塚崎の神社
塚崎神明社の概要
塚崎神明社は、柏市塚崎にある神社です。塚崎神明社の創建年代等は不詳ながら、嘉元から徳治(1303-1308)年間の創建とされますが、当地一帯の相馬御厨は平安時代末期頃に伊勢神宮に何度も寄進されていたことから、平安時代末期に祀られていた可能性が指摘されています。徳川家康が関東に入国した翌年の天正19年(1591)には社領10石の御朱印状を受領、また田中藩主本多正珍は宝暦7年(1757)に石鳥居を奉納するなど、崇敬を集めてきました。明治維新後の社格制定に際し村社に指定され、明治41年には塚崎新田の子ノ神社をはじめ、塚崎地内の浅間・厳島・面足・白幡諸社を合祀しています。かしわ七福神の大黒天です。
社号 | 神明社 |
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祭神 | 天照皇大神、應神天皇、武甕槌命 |
相殿 | - |
境内社 | 大杉神社、子ノ神社、愛宕神社、子安社、猿田彦社、白幡権現、大六天2、弁財天2、疱疹神、津嶋牛頭天神、金毘羅大権現 |
住所 | 千葉県柏市塚崎1460 |
祭日 | 輪くぐり6月30日、秋祭10月17日 |
備考 | 旧村社 |
塚崎神明社の由緒
塚崎神明社の創建年代等は不詳ながら、嘉元から徳治(1303-1308)年間の創建とされますが、当地一帯の相馬御厨は平安時代末期頃に伊勢神宮に何度も寄進されていたことから、平安時代末期に祀られていた可能性が指摘されています。徳川家康が関東に入国した翌年の天正19年(1591)には社領10石の御朱印状を受領、また田中藩主本多正珍は宝暦7年(1757)に石鳥居を奉納するなど、崇敬を集めてきました。明治維新後の社格制定に際し村社に指定され、明治41年には塚崎新田の子ノ神社をはじめ、塚崎地内の浅間・厳島・面足・白幡諸社を合祀しています。
千葉県神社名鑑による塚崎神明社の由緒
社伝によれば、鎌倉時代末期の嘉元から徳治年間の創建とされ、塚崎地区の鎮守。神社は天照大神・八幡社・春日社の三社を祀る典型的な三社神明であり、社殿は伊勢神宮の方向にむかっている。正面奥の三社般は、拝殿の後部からめぐる玉垣の内に、御正殿を中心に左右に八幡社と春日社を配しており、素朴な神明造が静寂で神々しきを感じさせる。戦国時代の天正一九年に、徳川家康から社領一〇石を寄進されたと伝えられる。(千葉県神社名鑑より)
「千葉縣東葛飾郡誌」による塚崎神明社の由緒
風早村塚崎字水臺にあり、指定村社にして天照皇大神を奉祀し、春日、八幡の兩神を並祀す、境内坪數二千九百十三坪ありて境内神社は春日神社、八幡社、子安社、猿田神社、一の宮社、大杉社の六社なり。創建の年代不詳なりと雖も徳治嘉元の間にあるものヽ如く、古来世人の歸仰頗る厚く所謂塚崎明神と呼びて其名遠近に轟けり、されば天正十九年十一月家康公より社領十石の寄進あり越えて寶暦七年二月領主本多伯耆守には尊崇の餘り花崗石華表を奉納せり、續て同十二年七月には額面一並に木刀二振の寄進ありたり、氏子は風早、土、手賀、鎌ケ谷の四ヶ村十七村落に亘り戸數約千二百餘を算す、里人或は伊勢神明社と呼び、之を以て式内葛飾郡意富比神社となせども未だ猝に信ずべからず、社殿(一間四方)は丘陵上にあり、其他拝殿五間四方、神楽殿間口三間奥行二間、籠殿幄舎等あり境内廣濶、古檜老杉鬱蒼として庭上青苔滑に眞に幽邃絶塵の域神威頗る嚴なり、祭典は十月十七日にして盛大且壮厳に執行せらる。(「千葉縣東葛飾郡誌」より)
「沼南町史」による塚崎神明社の由緒
塚崎地区の鎮守である。大津川を境として、柏市藤心地区と相対する丘陵に位置し、欝蒼たる樹海を形成する。急斜面の表参道は伊勢神宮の方角(南南西)に向かい、ゆるやかで長い北側の参道は塚崎地区に向かっている。その広闊な境内、古雅な社殿や石垣の佇い、昼なお暗い石段や古鳥居の風格など、森厳幽邃な境趣は本町神社中の白眉である。
創立については、古記録がなく詳らかではないが、境内の社碑(明治三十七年建立)によれば、社殿は鎌倉時代末期の嘉元から徳治(一三〇三~一三〇八)のころの造営とされる。しかし、古く南北朝時代の『神鳳鈔』には、「相馬御厨、大神宮御領、蓋調此地方也。祠官守氏、社領十石」と記載され、江戸期の『寺社分限帳』にも「塚崎神明メ社、祭田十石ト。凡御厨地、必ズ皇大神ヲ祀リ、称シテ神明ト日フ」とあり、『下総国旧事考』(一八四五)にも「塚崎明神、土人称伊勢明神」とあるなど、伊勢神宮の相馬御厨と当社との関係が、きわめて密接であったことが知られる。相馬御厨は、伊勢神宮領として平安時代末期には何度も寄進されているから、当時この神明社が、相馬御厨の重要な聖地として創建されたことが推察される。一方、昭和十(一九三五)年に県の天然記念物に指定された大榊(現在、主幹は枯死し葉が生育中)は、当時の県の鑑定では約一三〇〇年の樹齢とされたことも、当社の創建の古さを物語るものである。
戦国時代末期の天正十九(一五九一)年十一月、当社は徳川家康から社領一〇石を受けている。また、江戸時代中期には、現存する三社殿が享保十八(一七三三)年に再建されるや、宝暦三(一七五三)年には表参道の石段が藤心村氏子によって奉納され、同七年には石段の下に弁財天が祀られ、上部には鳥居が建てられるなど、境内はいちじるしく整備された。この鳥居は、石柱に「下総国相馬郡塚崎村宝暦七年丁丑二月日 執政中太夫拾遺伯州刺史藤原正珍 依為旧領釆地謹建焉」と刻まれであり、宝暦七(一七五七)年に時の幕府領であった相馬郡四十数カ村の領主、本多伯耆守正珍の奉納であった。
幕末の天保五(一八三四)年には、拝殿前の石垣が近隣諸村の氏子多数によって奉納され、社殿の威容を増した。ところが、明治四(一八七一)年に当社は神領として官地とされ、同八年には拝殿が再建されたものの、民有地に復したのは同三十四(一九〇一)年であった。これを機として境内が再び整備され、翌三十五年には神楽殿が造営され、同三十九(一九〇六)年には風早村社の指定を受けた。さらに、同四十一年には塚崎新田(現在柏市)の子ノ神社をはじめとして、塚崎地区の浅間・厳島・面足・白幡の各神社を社域内に合祀している。また、大正四(一九一五)年には御大典記念として幄舎を建立し、同六年には境内の石段が諸村の氏子によって奉納された。昭和三十二(一九五七)年十月、従来茅葺きであった三社殿・拝殿・神楽殿などを鎧型の鉄板で完全に覆い、その記念として一万本の植樹がなされている。
現存する三社殿は、前面の拝殿から巡らされた黒塗りの玉垣(板堺、上部菱格子、全長三五間)の中に、大神宮を中心として右側に八幡社、左側に春日社を配する。享保十八(一七三三)年の造営で、様式は左右切妻で千木と勝尾木を置くが、御正殿には両端の棟持柱と勾欄がつけられている。また、拝殿と神楽殿も、ともに千木と勝尾木が置かれ、勾欄が廻らされ、就中、拝殿には唐破風造りの向拝がついている。(「沼南町史」より)
塚崎神明社所蔵の文化財
- 神明社石鳥居(柏市指定文化財)
- 大榊
- 十二座神楽
- 手洗鉢
神明社石鳥居
この鳥居は、高さ285cmで、材質は硬い安山岩を使用して建立されたものです。形式は、伊勢神宮の神明鳥居または明神鳥居を原型としながら、細部ではそれぞれが入れかわったり、貫(ぬき)をつめたりしながら特殊な形状をした変形鳥居とされます。
本殿へ向かって右側の柱に「神明宮石華表」との銘文があり、華表(かひょう)とは漢名(中国の建築名)で鳥居のことを意味します。左側の柱には、宝暦7年(1757)に本多正珍(まさよし)が建立したことが刻されています。
石鳥居を奉納した正珍は、延享3年(1746)から宝暦8年(1758)まで江戸幕府の老中をつとめた駿河国田中藩主(現在の静岡県藤枝市)で、下総国四十二ヶ村に飛領地を持つ四万石の大名でした。
正珍は、同じ宝暦7年に領地内であった布施の東海寺(布施辨天)と増尾の広幡八幡宮にも石鳥居を寄進しています。代々、本多氏は信仰心に篤く領地内に善政を施し領民から慕われていたといわれます。(柏市教育委員会掲示より)
塚崎神明社の周辺図
参考資料
- 千葉県神社名鑑
- 「沼南町史」
- 「千葉縣東葛飾郡誌」