旧手賀教会堂。柏市手賀にある旧跡・名所

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旧手賀教会堂。柏市手賀にある旧跡・名所

旧手賀教会堂の概要

旧手賀教会堂は、柏市手賀にある名所旧跡です。旧手賀教会堂は、明治6年の信教の自由によりキリスト教の布教が開始された後、当地の13名が洗礼を受け、信者からの献金により明治16年に聖堂(礼拝堂)が増築されたといいます。漆喰塗りの壁で首都圏に現存する教会堂としては最古のもので、平成24年地千葉県文化財に指定されています。

旧手賀教会堂
旧手賀教会堂の概要
旧跡・名所名 旧手賀教会堂
みどころ 史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 柏市手賀666-2
備考 -




旧手賀教会堂の由緒

旧手賀教会堂は、明治6年の信教の自由によりキリスト教の布教が開始された後、当地の13名が洗礼を受け、信者からの献金により明治16年に聖堂(礼拝堂)が増築されたといいます。漆喰塗りの壁で首都圏に現存する教会堂としては最古のもので、平成24年地千葉県文化財に指定されています。

境内掲示による旧手賀教会堂の由緒

明治6年、信教の自由が保障され、キリスト教禁制の高札が撤去されると、日本ハリストス正教会(ギリシャ正教=ロシア正教)のニコライ大主教は北海道函館より布教活動を開始しました。千葉県には明治8年法典教会(船橋市)の設立が第一歩で、つづいて大森、船穂(ともに印西市)、布施(我孫子市)に教会が設立されました。
大森教会での布教を知った手賀、布施の人たちは、ニコライ大主教に遅れること約1年、手賀の地に布教活動の第一歩を記し明治12年3月に13人が洗礼を受けました。
教会堂の設置は、明治15年の教会設立のための信者からの献金を得て、翌16年に、使用していた民家に聖堂(礼拝堂)が増築されたことに始まります。 聖堂は壁が漆喰で塗られ、窓の様子から教会であることがわかります。この建物は首都圏近郊に現存する教会堂としては最古のものです。
かつて聖堂の壁には信仰の対象とする「至聖生神女(マリア)」、「主全能者(キリスト)」、「機密の晩餐」の描かれたイコン(聖像画)が掲げられていました。 絵の作者は、笠間藩(現茨城県笠間市)出身の女流画家山下りんで、彼女は、明治14年ロシア帝国の女子修道院に留学し、イコンを勉強し、帰国後は神田ニコライ堂で製作し、イコンは全国の教会へ送られました。
なお、イコンや什器(教会で使用する道具)は昭和49年同地区に新たに建築された教会に移され、現在も大切に使用されています。(柏市教育委員会掲示より)

「沼南町史」による旧手賀教会堂の由緒

ハリストス手賀正教会
明治六(一八七三)年、信教の自由が保証されキリスト教禁制の高札は撤去された。この期をもってギリシャ正教(日本ハリストス正教会)のニコライ大司教の精力的な布教活動が始まり、函館、仙台などを経て千葉県にも及んだ。明治八年十二月には船橋市法典に法典教会が置かれ、同十年には印西町大森にも教会が設置された。
この大森教会での布教活動を知った子賀の湯浅長左衛門・岩立六左衛門・岩立藤蔵、布瀬の梅沢作兵衛などは誘い合って、キリスト教信仰を決意し、ニコライ大司教の指導のもとに伝道が始まった。
岩立藤蔵家の所有であった手賀の地に教会堂が置かれたのは、明治十二年頃であった。すなわち現在の旧教会堂は、民家を移築したと思われ、その造作の様子をみると聖堂(礼拝堂)は後に増築したものである。
この頃に洗礼を受けた人は各々に、イワン、アナスタシアなどの洗礼名をもっていたことが、現存する当時の文書類から知ることができる。これらは、近郷の有力者や豪農を中心に、手賀教会堂での本格的なキリスト教の布教活動が始まったことをも物語っている。
明治三十七(一九〇四)年、ロシアに宣戦を布告して、日露戦争突入という多難な時期に直面した。ロシア的な色彩のものはすべて敵視され、周辺の教会や教会堂のいくつかは、この時期に消滅したといわれる。しかし、手賀教会堂の信徒達は難局打開のため、伝道師や牧師を招へいして礼拝を続けた。
昭和五年頃までは、教会堂に伝道師・神父が常駐していた。その後は、洗礼・葬礼といった儀礼の時だけニコライ堂より神父が出張してくるようになった。第二次世界大戦時は神父の来訪もなく、葬送の時以外ほとんどその活動はなかった。現在、創立以来約百年を経て、信徒の家も三代から四代目を数え、日曜日には教会堂での礼拝や賛美歌の歌唱などが実施されている。(「沼南町史」より)


旧手賀教会堂の周辺図