持法院|柏市藤ケ谷にある天台宗寺院

猫の足あとによる千葉県寺社案内

登慶山持法院|東葛印旛大師八十八ヶ所霊場、下総三十三ヶ所観音霊場

持法院の概要

天台宗寺院の持法院は、登慶山如意輪寺と号します。持法院は、建久元年(1190)千葉介常胤が鎌倉に居館中霊夢により、仏師運慶に如意輪観音像を彫らせ、運慶の徒弟登慶に当地へ持参させて観音堂を建立したと伝えられます。また、登慶は、厨子に藤の花を飾り安置したことから、村名が番場村から藤萱村と呼ばれるようになったと伝えられます。観音堂地は、もと相馬氏の居館だったとも伝えられ、相馬氏の墓石が残されています。東葛印旛大師八十八ヶ所霊場8・26・46番、下総三十三ヶ所観音霊場27番です。

持法院
持法院の概要
山号 登慶山
院号 持法院
寺号 如意輪寺
住所 千葉県柏市藤ケ谷178-1
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



持法院の縁起

持法院は、建久元年(1190)千葉介常胤が鎌倉に居館中霊夢により、仏師運慶に如意輪観音像を彫らせ、運慶の徒弟登慶に当地へ持参させて観音堂を建立したと伝えられます。また、登慶は、厨子に藤の花を飾り安置したことから、村名が番場村から藤萱村と呼ばれるようになったと伝えられます。観音堂地は、もと相馬氏の居館だったとも伝えられ、相馬氏の墓石が残されています。

境内石碑による持法院の縁起

持法院の沿革
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけ、源頼朝最大の支援者ともいわれる亥鼻城主千葉介常胤が、鎌倉在館中、霊夢により、古梅の霊木を発掘。これを仏師運慶に如意輪観音像として彫らせ、一宇を建立安置尊信したことに始まる。承久の乱後、次男で相馬氏を名のった師胤は、居住する相州相馬郡番場村に、運慶の徒弟にして僧である登慶にこの尊像を遣らせ、茅葺の屋根で堂宇を結び、厨子に藤の花を飾り安置。これにより人々は、藤萱村(ふじかやむら)と呼ぶようになった。承応元年(一二二一年)新たに堂宇を建立。爾来、如意輪観音と登慶法師に因み、登慶山如意輪寺持法院と号した。比叡山延暦寺を本山とする天台宗の名刹である。仏のご加護の下、平成二十七年六月二十五日に檀信徒宿願の本堂、客殿を落慶した。(境内石碑より)

「沼南町史」による持法院の縁起

当寺は、藤ケ谷下地区の国道一六号線から約四〇〇メートルほど町道を入った左手に所在する。境内は水田に沿って西から東に向かい、北側の高台には観音堂と墓所がある。特に観音堂は、山門のはるか手前から直登する急な石坂があり、その上部の広い平地の奥に古堂宇が建てられている。堂を取り巻く三方の墓域と、さらにその外側に林立する杉の大樹は、あたかも独立した境内のような趣を呈している。
当寺には、創建などに関する古記録は存在しないが、大正七(一九一八)年六月に多田屋書店の編纂した『房総町村と人物』の中に、当寺の創建と藤ヶ谷の地名について、ほぼ次のような興味ある説話を収録している。
建久元(一一九〇)年に千葉介常胤が鎌倉に在館中、霊夢により古梅の霊木を発掘し、仏師運慶に如来像を彫らせ、一宇を建立してここに安置した。堂宇は次男の師常に伝えられた。承久の乱(一二二一)が起こり、師常が従甥胤綱と上京する際、仏勅により胤綱の嫡男師胤が居住する総州相馬郡番場村に尊像の移還を願い、運慶の従弟である登慶に尊像を送らせた。師胤はこれを聞いて崇敬し、にわかに草堂を営んで藤花をお厨子に覆った。これより時の人は番場村を”藤萱村”と呼んだ。貞応二(一二二三)年、堂宇を建立して尊像を安置し、如意輪尊と登慶法師にちなんで登慶山如意輪寺持法院と号した。また、番場村を藤谷村と改称した。云云-
右の記事が基づいた資料は不明であり、また実名者と史実、如来と観音等の混乱もみられる。しかし、当寺の境外地には”登慶坊”と”順慶坊”と称する古堂祉があること、如意輪観音像は昔鎌倉から移還されたという口碑が伝えられること、当地区が鎌倉期には相馬氏の所領であったこと、当地区の薬師堂には貞治三(一三六四)年建立の弥陀一尊板碑が存すること、などから、記事の後半部分はかなり事実に近いことが推察される。
ともあれ、当観音堂の真裏には当地の相馬氏の墓石(延宝年間以降)が林立し、堂内には寛永や承応の年号と「施主相馬助左衛門」の名を刻む六地蔵の大石像を現存する。さらに、前述の石坂は三角形の石塊で築積されているが、これはもと相馬氏の居館の石垣であったといわれる。これらによって、当観音堂と相馬氏とは密接不離の関係にあったことが知られる。堂は素朴な造りの古建築であるが、建立年時は不詳である。もと重厚な茅葺であったが、昭和四十三年ごろ鉄板葺に改装された。堂には三ッ葉葵の紋章が付けられ、当寺には徳川将軍の初代から七代までの位牌を現存することと共に、江戸初期には将軍家との関わりがあったことを示唆している。観音像(町指定文化財)は恵心僧都作という説もあるが、この所在により、当寺は下総三十三観音の第二十七番の札所となっている。(「沼南町史」より)

「千葉縣東葛飾郡誌」による持法院の縁起

觀音像 藤ヶ谷持法院觀音堂安置
同縁起に曰く、運慶の作にして相馬常胤の嫡男小次郎師胤奥州相馬に在り運慶の従弟登慶に命じ、相馬郡番場郷へ守り奉らしむ貞慶元年清水邊田と云ふ處に堂を建てて之に安置し登慶山如意輪寺といふ。云々(「千葉縣東葛飾郡誌」より)


持法院所蔵の文化財

  • 如意輪観音像(柏市指定文化財)

如意輪観音像

観音堂の本尊で、半跏思惟・戴冠六臂の木造坐像で像高は52cm、白毫は水晶、玉眼で、宝冠を戴き、彩色はなく白木彫です。台座と光背は二重円光、台座とも彩色があるが尊像とは別の製作かと思われます。本像を納める厨子には三ツ葉青井の紋が描かれています。
寺伝によれば、鎌倉時代の建久元年(1190)、鎌倉に在館していた千葉常胤が霊夢によってこの観音像を仏師運慶に彫らせ、これを運慶の徒弟登慶が当地に遷座したとされます。この尊像と登慶にちなんで、寺号を「登慶山如意輪寺持法院」と称するようになりました。千葉氏の一族で下総に勢を張った相馬氏と密接な関係にあったようです。
本像は、下総三十三ヶ所観音霊場の第27番の札所になっています。如意輪観音は、六観音・七観音のひとつで、一切衆生の願望を満たし、苦を救うものとされます。(柏市教育委員会掲示より)

持法院の周辺図


参考資料

  • 「沼南町史」