天徳山龍泉院|相馬小次郎師胤が開基
龍泉院の概要
曹洞宗寺院の龍泉院は、天徳山と号します。龍泉院は、建長5年(1253)に堂宇を建立して創建、量指長栄和尚(弘治元年1555寂)が曹洞宗寺院として開山、相馬小次郎師胤が開基したといいます。江戸期の寛永9年(1632)には領主本多豊前守正貫の帰依を受け当地を寄進、享保19年(1734)当地に本堂・庫裡を再建しています。東葛印旛大師八十八ヶ所霊場33番です。
山号 | 天徳山 |
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院号 | 龍泉院 |
寺号 | - |
住所 | 千葉県柏市泉81 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
龍泉院の縁起
龍泉院は、建長5年(1253)に堂宇を建立して創建、量指長栄和尚(弘治元年1555寂)が曹洞宗寺院として開山、相馬小次郎師胤が開基したといいます。江戸期の寛永9年(1632)には領主本多豊前守正貫の帰依を受け当地を寄進、享保19年(1734)当地に本堂・庫裡を再建しています。
「沼南町史」による龍泉院の縁起
当院は東西に約一五〇メートルに及ぶ直線の表参道を有し、背後に森のある風致に恵まれた台地に位置する。
古記録によれば、当院は鎌倉期の建長五(一二五三)年、村中に殿堂を建立したのが開闢とされる。その場所や規模は不詳であるが、泉村の古い歴史をもっ地域内で寺祉とされている字馬場の辺と推定される。以後、室町期の記録としては、『本土寺過去帳』(九日の項上段)につ相馬泉ノ龍泉院昇覚戒名道学」という記載がみえるから、当時も存続していたようである。
下って戦国時代の天正年中(一五七三-九二)、秀吉公の小田原陣の際に、当院開基の相馬小次郎師胤が自害し、その供養として新井堂・辻堂両所が当院に寄進された。一方、当院開山とされる量指長栄和尚は弘治元(一五五五)年十月二十四日の示寂であるから、当院が曹洞宗として事実上創立されたのは、天文年間(一五三二~五五)ごろと推定される。
建立の縁起によれば、開山量指和尚が当地の伝右衛門家(当主、長妻伝右衛門氏)の宅地内に酒気を含む泉の湧くのを見て奇異に思い、暫時足をとめて一覧する時、突如天竜が現れ小形に変化して入水したので、これを掬って衣の袖に包んで帰山し、読経供養して霊宝とした。これによって「天徳山龍泉院」と号したという。現在、当院にはこの天竜が祀られてあり、また、長妻家には竜の入水したと称する池が最近まで存在していた。
江戸時代には、当院は相馬郡の領主本多氏の庇護を受けた。寛永九(一六三二)年、本多豊前守正貫が第五世幽谷機雄に帰依し、現在の向寺の地に約四町歩の土地と諸堂すべてを喜捨建立した。この時の堂宇は現在の建物から約三〇間の背後にあり、参道は現在の県道柏印西線方面から急坂を登る道路であった。
しかし、堂宇は低地で難儀をしたので、享保十九(一七三四)年に現在地に本堂・庫裡を再建した。その際、地盤は七尺も盛土し、人夫は延べ一千人も要した。参道は民有地を寺有地五反歩と交換して新設し、三間五尺幅の大門通りが開かれた。現在の本堂は当時のもので、内陣の須弥壇や前机もまた同じである。庫裡は当時の大きな建物(一〇間半×五間半)を解体し、昭和四十二年一月に改築された。
山門は寛政六(一七九四)年に、第十八世大愚賢道代の建立である。総欅造りの四脚門で、相馬家の定紋と同じ九曜星と月星の彫刻がみられる。また、大悲殿は通称”観音堂”といい、西国・坂東・秩父の百観音と、坂東六阿弥陀等の各石仏を祀る。天保十(一八三九)年十月の造営で、石像の奉納者は本町全域のほか、柏市・鎌ケ谷市・白井町の範囲にまで及んでいる。これを期して近隣の村々に普門品講が組織され、以後毎月九日に読誦された。嘉永三(一八五〇)年には奉読十万巻を記念して、山門頭に大供養塔を建立した。現在、この講は泉地区では廃絶したが、他の地域ではなお存続している。(「沼南町史」より)
龍泉院の周辺図
参考資料
- 「沼南町史」
- 「千葉縣東葛飾郡誌」