和名ヶ谷日枝神社|松戸市和名ヶ谷の神社
和名ヶ谷日枝神社の概要
和名ヶ谷日枝神社は、松戸市和名ヶ谷にある神社です。和名ヶ谷日枝神社の創建年代等は不詳ながら、(上杉家の始祖とされる鎌倉時代の武将)藤原重房が和名ヶ谷郷の開発に際して、郷の鎮守として祀られたといいます。徳川家康の関東入国後には、天文19年(1591)社領5石の御朱印状を受領、明和3年(1766)には当地の代官河野左膳より永代初穂料一石分の寄附を受けていました。明治維新後の社格制定に際しては村社に指定され、大正2年には神饌幣帛料供進社に指定されていました。例祭に奉納される和名ヶ谷の獅子舞の創始は不詳ながら松戸で最古の獅子舞といわれ、松戸市無形文化財に指定されています。
社号 | 日枝神社 |
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祭神 | 大山咋命 |
相殿 | - |
境内社 | 諏訪大神、笠間稲荷など6座 |
住所 | 千葉県松戸市和名ヶ谷822 |
祭日 | 9月20・21・22日 |
備考 | - |
和名ヶ谷日枝神社の由緒
和名ヶ谷日枝神社の創建年代等は不詳ながら、(上杉家の始祖とされる鎌倉時代の武将)藤原重房が和名ヶ谷郷の開発に際して、郷の鎮守として祀られたといいます。徳川家康の関東入国後には、天文19年(1591)社領5石の御朱印状を受領、明和3年(1766)には当地の代官河野左膳より永代初穂料一石分の寄附を受けていました。明治維新後の社格制定に際しては村社に指定され、大正2年には神饌幣帛料供進社に指定されていました。
「千葉県神社名鑑」による和名ヶ谷日枝神社の由緒
藤原重房がこの地に封ぜられ、後、和名ヶ谷郷開発のとき鎮守の神として祀られる。社領五石。徳川家光より代々御朱印状を寄せられ、明和三年、代官河野左膳より永代初穂料一石分を寄附される。(「千葉県神社名鑑」より)
「千葉縣東葛飾郡誌」による和名ヶ谷日枝神社の由緒
八柱村和名ヶ谷にあり、指定村社にして大山咋命を奉祀す、境内坪數二千二百八十坪九合、社殿間口六尺奥行六尺、拝殿間口五間奥行二間半ありて、境内神社は鹿島神社なり。
本社殿は寛永六年二月の改造に係れるものなるが、其棟標の記に曰く、下總國葛飾郡國分分社隣郷十數村の總計なり、又慶安元年十月の官符に曰く、和名ヶ谷山山王權現の社領同村田五石を以て、先規により之を寄附し、境内山林竹木の租賦を免除す、と由来本社は闔郷の敬虔奉祀するところなりと雖も社乗失傳して縁起するところ明白ならざるは惜みても餘りありと謂ふべし、現在境内古木鬱茂し盡尚暗く幽邃にして神氣自ら身に迫るの靈區たるを知る、毎年九月二十日を例祭の日となす、此日三疋獅子と稱して猛獣に凝したる奇異なる面を被れる者三人、各々異様の服装を爲して舞楽を神前に奏す、滑稽にして興趣あり、老若男女の参拝多く雑踏を極む。(「千葉縣東葛飾郡誌」より)
「稿本千葉縣史」による和名ヶ谷日枝神社の由緒
日枝神社
同郡(同上)八柱村大字名和ヶ谷字山宮地に在り、境内二千二百八十坪九合、祭神は大山咋命なり、徳川幕府の時朱印地高五石を有す、本村の鎮守にして末社六座あり。大正二年四月幣饌料供進指定(「稿本千葉縣史」より)
和名ヶ谷日枝神社所蔵の文化財
- 松戸の獅子舞(和名ヶ谷)
松戸の獅子舞(和名ヶ谷)
和名ヶ谷の獅子舞は松戸で最古といわれていますが、いつ、どこから伝えられたか不明です。天明年間(一七八一~)に地震・飢饉があった時、代官であった倉橋伝助が、みこし、獅子舞を奉納したとされています。かつては獅子舞についての巻物がありましたが、上本郷や市川の国府台などに伝えに行っている間に紛失してしまったといわれています。
舞は日枝神社で九月二〇・二一・二二日に行われます。登場するのは親獅子一人・女獅子一人・中獅子一人・猿一人・笛数人です。
ストーリーは全く不明で伝えられたものをそのまま伝承するのみですが、内容は、五穀豊穣の祝いと厄病払いのために神の守護を祈るというものです。
昭和四十四年四月、大橋、上本郷の獅子舞と共に市の無形文化財に指定されました。(松戸市教育委員会掲示より)
和名ヶ谷日枝神社の周辺図
参考資料
- 「千葉縣東葛飾郡誌」
- 「千葉県神社名鑑」