廣徳寺廣徳寺|松戸史跡七福神の弁財天
廣徳寺の概要
曹洞宗寺院の廣徳寺は、金龍山と号します。廣徳寺は、高城越前守胤廣が寛正3年(1462)栗ヶ澤に創建、大ロ一尊大和尚(永正15年1518年遷化)が開山したといいます。天文6年(1537)に高城下野守胤吉(永禄8年1565年没)が当地へ寺院を移して開基、高城氏歴代の墓所として寺領200石を受領した大寺でしたが、天正18年(1590)の小田原北条攻めに際して小金城は落城、徳川時代には寺領20石の御朱印状を受領、近隣に末寺を擁していました。松戸史跡七福神の弁財天です。
山号 | 金龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 廣徳寺 |
住所 | 松戸市中金杉4-4 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
廣徳寺の縁起
廣徳寺は、高城越前守胤廣が寛正3年(1462)栗ヶ澤に創建、大ロ一尊大和尚(永正15年1518年遷化)が開山したといいます。天文6年(1537)に高城下野守胤吉(永禄8年1565年没)が当地へ寺院を移して開基、高城氏歴代の墓所として寺領200石を受領した大寺でしたが、天正18年(1590)の小田原北条攻めに際して小金城は落城、徳川時代には寺領20石の御朱印状を受領、近隣に末寺を擁していました。
「千葉縣東葛飾郡誌」による廣徳寺の縁起
廣徳寺
中金杉にあり、金龍山と號す、曹洞宗にして、遠江國周知郡司睡斎末寺、小金寺なり、寺傳に云ふ、寛正三年四月六日高城越前守胤廣の開基にして、當時栗ヶ澤にありしが、天文六年大谷口城の工竣るに及び中金杉に遷せりと高城氏代々の墓所にして、現に胤忠、胤廣、胤吉、辰胤、則五代の墓を存す、當時は二百石の寺領ありて、七堂伽藍を備へたる大寺なりしが、徳川時代に至り代々御朱印二十石を寄進せられたり、数囘の火災に遭ひ、寺態舊觀を留めず。(「千葉縣東葛飾郡誌」より)
「松戸市史料 第4集 松戸町誌・小金町誌」による廣徳寺の縁起
広徳寺寺
中金杉字南台ニアリ。坪数千六百八十坪金竜山ト号ス。曹洞宗ニシテ、遠江国周知郡久野村可睡斎末寺ニシテ小本寺ナリ。寛正三年四月六日、熊野新宮二階堂山城守胤行長男高城越前守胤広ノ開基也。(「松戸市史料 第4集 松戸町誌・小金町誌」より)
廣徳寺所蔵の文化財
- 高城氏の墓所(松戸市指定史跡)
高城氏の墓所
広徳寺は曹洞宗の小金領内普及の中心となった寺である。
当寺は高城胤吉により栗ヶ沢に開山されたとされ、小金城主歴代のお墓がある。
高城氏は天文七年(一五三八年)に小田原の北条氏に味方し、二度に渡り安房の里見氏と戦い、大いに功績を挙げ、所領も広大な地域になった。
天正十八年(一五九〇年)北条氏と共に豊臣秀吉軍と戦い、小金城は浅野長政に攻略され落城した。
現在の墓石は江戸時代に建立したもので、徳川氏に遠慮し、胤則の妻の家系である藤原氏を名乗っている。(松戸市教育委員会掲示よより)
廣徳寺の周辺図
参考資料
- 「千葉縣東葛飾郡誌」
- 「松戸市史料 第4集 松戸町誌・小金町誌」