了修山本源寺|松戸市大橋にある日蓮宗寺院
本源寺の概要
日蓮宗寺院の本源寺は、了修山と号します。本源寺は、徳川家康の関東入国に際し、家康の五男武田信吉が天正18年(1590)末に小金領の領主となったことから、武田信吉の母於都摩の父である秋山越前守源虎康(自得院殿日楽大居士)が文禄3年(1594)当地に止住、慶長元年(1596)に当寺を開山しました。秋山越前守源虎康の孫正重(了修院殿日遊居士)は徳川秀忠に仕え、從五位下修理亮に叙任し、当寺を中興、秋山正重の法名より山号としたといいます。
山号 | 了修山 |
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院号 | - |
寺号 | 本源寺 |
住所 | 松戸市大橋766 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 本源寺幼稚園 |
本源寺の縁起
本源寺は、徳川家康の関東入国に際し、家康の五男武田信吉が天正18年(1590)末に小金領の領主となったことから、武田信吉の母於都摩の父である秋山越前守源虎康(自得院殿日楽大居士)が文禄3年(1594)当地に止住、慶長元年(1596)に当寺を開山しました。秋山越前守源虎康の孫正重(了修院殿日遊居士)は徳川秀忠に仕え、從五位下修理亮に叙任し、当寺を中興、秋山正重の法名より山号としたといいます。
境内石碑による本源寺の縁起
本源寺縁起
了修山本源寺は慶長元年(一五九六)九月、源氏の名門甲斐武田家二十四将の人地秋山伯耆守の子秋山越前守源虎康、法名自得院殿日楽大居士によって開山された。日楽がこの地に止住したのは文禄三年(一五九四)の事でむすめ於都摩の子で家康五男の武田信吉が天正十八年(一五九〇)末に小金領三萬石を与えられた縁による。日楽は慶長七年(一六〇二)六月十七日この地で入寂した。時に八十四歳。孫の正重は當山の中興で秀忠に仕え、從五位下修理亮に叙任四千石を領し、法名は了修院殿日遊居士である。よって當山は院号を山号とし本山本土寺と源虎康の扁諱を以て寺号とした。以来當山は歴代上人の堅固な護法の念により日蓮聖人の祖訓を体し檀信徒と共に教線の拡大が図られた。今茲に開創四百年を迎えるに当りその歴史を石刻し記念の碑とする。(境内石碑より)
「松戸のお寺」による本源寺の縁起
日蓮宗了修山本源寺
当山は慶長元年(一五九六)九月、甲斐武田家二十四将の一人、秋山伯耆の子、秋山越前守源虎康によって開山されました。虎康が、この地に止住したのは文禄三年(一五九四)の事で、娘於都摩の子で徳川家康の五男、武田信吉が天正十八年(一五九〇)末に小金領三萬石を与えられた縁によります。
当山の中興で虎康の孫正重(了修院殿日遊居士)は、徳川秀忠に仕え、従五位下修理亮に叙任、四千石を領しました。その正重の院号を山号とし、本山本土寺と源虎康からそれぞれ一字を以て寺号としました。
以来、当山は歴代上人の堅固な護法の念により、日蓮聖人の祖訓を体し、檀信徒と共に教線の拡大が図られました。昭和年代に入り、日蓮聖人開教七百五十周年を記念して本堂・庫裡の改修が行われ、寺観を一新、昭和四十三年には幼児教育を志願し、本源寺学園を設立、続いて「学校法人たちばな学園・本源寺幼稚園」へと発展し、幼児に宗教的環境の中での人格の形成を行える寺行を目指しています。(「松戸のお寺」より)
「日蓮宗寺院大鑑」による本源寺の縁起
(大観は慶長元年3月の創立。開山自得院日楽とある)(「日蓮宗寺院大鑑」より)
本源寺の周辺図
参考資料
- 「松戸のお寺」
- 「日蓮宗寺院大鑑」