頂昌山本法寺|松戸市和名ケ谷にある日蓮宗寺院
本法寺の概要
日蓮宗寺院の本法寺は、頂昌山と号します。本法寺の創建年代等は不詳ながら、当初真言宗寺院として創建、玄海上人が宗祖日蓮聖人の教化により文永元年(1262)に改宗、日蓮宗寺院として開山したといいます。
山号 | 頂昌山 |
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院号 | - |
寺号 | 本法寺 |
住所 | 松戸市和名ケ谷724 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本法寺の縁起
本法寺は、真言宗開祖弘法大師が浮ヶ谷山通源寺と称して大同2年(807)松戸浄苑の地に創建、建治3年(1277)に六老僧の一人伊豫阿闍梨日頂上人の聞法により、時の住職但馬阿闍梨日宣が日蓮宗に改め、伊予阿闍梨日頂を開山、自身が開基となり頂昌山本法寺と改めたといいます。伊豫阿闍梨日頂上人は真間山弘法寺を退隠後、妹の乙御前と共に当寺に閑居していたことから、真間山弘法寺と両寺同一と称されていましたが、国府台の合戦に際し天文7年(1538)焼失、その後当地へ移して再興しています。
境内石碑による本法寺の縁起
本法寺縁起
當山は大同二年(八〇七)真言宗開祖弘法大師當地に巡錫せられ「浮ヶ谷山通源寺」を創立し、七堂伽藍を具備せる大寺院たりしも、建治三年(一二七七)に至り、時の住職深く日蓮大聖人の本弟子 日頂尊聖の宣教を聞法信受し、日蓮宗に転じ「頂昌山本法寺」と改称す。頂尊が真間山退隠後三年、御妹乙御前と共に居住せられたる霊場なるを以て、真間山と両寺同一と称し来り。宗格卑しからざる宗門の霊跡なり。之に依りて伊予阿闍梨日頂尊聖を開山と仰ぎ、頂尊の法弟阿闍梨日宣上人を開基となす。天文七年十月七日(一五三八)鴻之台の役に里見義弘方敗兵の潜伏する所となり、北條氏康の軍に焼かれ、殿堂門宇悉く消失し、僅かに釋迦如来堂のみ残れり。後に現地に移り再興せられ釋迦佛像は今に奉安す。なお通源寺本堂礎石一部も保存せり。(境内石碑より)
「松戸のお寺」による本法寺の縁起
日蓮宗頂昌山本法寺
松戸市和名ヶ谷の中心に位置する字中台に約千三百坪の寺領と西部の字諏訪原に約二百坪の墓地(松戸浄苑)があります。当山は大同二年(八〇七)に弘法大師が和名ヶ谷の地を訪れ、浮ヶ谷山通源寺という真言宗の寺を創設したと伝えられています。
建治三年(一二七七)日蓮大聖人の直弟子、六老僧の一人伊豫阿闍梨日頂聖人(一二五二~一三一七)が天台宗から日蓮宗に改宗、頂昌山本法寺と山号、寺号を改名しました。
通源寺の住職は日頂聖人の法弟となり但馬阿闍梨日宣と改名し、当山の第一祖になりました。よって当山は、開山を伊豫阿闍梨日頂聖人、開基を但馬阿闍梨日宣聖人とします。以来綿々と続き、現住職は五十七世になります。
日頂聖人は真間山弘法寺を退隠されてから、正応五年(一二九二)~永仁二年(一二九四)の間、当山に御妹の乙御前と共に居住し下総の布教活動をしました。
天文七年(一五三八)十月に鴻之台の役があり、里見軍の陣があった当山は、北条軍により焼かれ、伽藍のほとんどが焼失。わずかに、釈迦如来堂のみが焼失をのがれ、それを基盤として約450年前、釈迦如来堂より東に400Mの現在の地に移転再興し現在に至ります。(「松戸のお寺」より)
「日蓮宗寺院大鑑」による本法寺の縁起
本法寺(頂昌山)和名ヶ谷
大同2(807)年の創立。開山伊予阿闍梨日頂。開基但馬阿闍梨日宣。池上・芳師法縁。もと真言宗で弘法大師の創立、浮ヶ谷山通源寺と称したが、建治3年に日頂により改宗改称。真間山弘法寺と並び称せられ七堂伽藍を具備したが、天文7年10月7日、鴻之台の役に里見義弘の残兵が潜伏し、北条氏康の兵火で焼失、その後現在の如来堂付近より現在地に移転再建。日頂は真間山引退後、妹乙御前姫と当所に閑居した。(「日蓮宗寺院大鑑」より)
本法寺の周辺図
参考資料
- 「松戸のお寺」
- 「日蓮宗寺院大鑑」