茂侶神社|延喜式神名帳所載の社
茂侶神社の概要
茂侶神社は、流山市三輪野山にある神社です。茂侶神社の創建年代等は不詳かつ、由緒についても諸説あるようですが、「千葉縣東葛飾郡誌」では、下毛野君の始祖豊城命が三諸山(当地)に登り、八回槍を弄し、八回刀を撃ぬとの夢辞に因んで、土地を八木と名づけ、八木郷と称し、神社を山名の諸(茂侶)に因んで茂侶神社と名づけたと記しています。延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される茂侶神社に比定される名社で、江戸時代には幕府より社領25石の御朱印状を受領していました。
社号 | 茂侶神社 |
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祭神 | 大物主命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 千葉県流山市三輪野山5-620 |
祭日 | オビシャ:毎年1月8日前後の日曜日 |
備考 | - |
茂侶神社の由緒
茂侶神社の創建年代等は不詳かつ、由緒についても諸説あるようですが、「千葉縣東葛飾郡誌」では、下毛野君の始祖豊城命が三諸山(当地)に登り、八回槍を弄し、八回刀を撃ぬとの夢辞に因んで、土地を八木と名づけ、八木郷と称し、神社を山名の諸(茂侶)に因んで茂侶神社と名づけたと記しています。延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される茂侶神社に比定される名社で、江戸時代には幕府より社領25石の御朱印状を受領していました。
境内掲示による茂侶神社の由緒
拝殿屋根葺替記念碑
第六十代醍醐天皇の御世は、後に延喜の治といわれる理想の時代であった。
当時の制度中に延喜式神名帳があって、全国から三千百三十二の神社が登載されて、国の祭祀にあづかった。
この地方では、葛飾に坐す茂侶神社と他の一社が載っている。茂侶神社については諸論説を検索すると、当神社が延喜式内社である。
古記録による幾度の神階昇叙や、境内に接した神宮寺跡地、神社前を南方に延びる旧参道西平井の鳥居跡、鰭ヶ崎塚之腰祭祀跡等の水路上陸地、或いは神奈備北浦の巨過ぎ八本より八木郷の地名由因などから考察するに、広大な神域を有し、又江戸幕府からは毎年二十五石の祭祀料を捧げ或いは今二伝わる神賀良餅の神祭その他によって盛大な祭典が偲ばれる。
創立年代は、式内社であり、又奈良時代・平安初期に大和地方から当地に部族の移動記録等により、その時代と推察される。
御祭神は、大物主命、又の御名を大國主命とも大己貴神とも称える。
往昔、三輪山の台地のふもとは河川が洗い、水田も拓けて稲作が盛んであったことは、万葉集の葛飾早稲の歌でも知られる。陸地には畑作物が豊かに稔った。
朝に祈り夕に感謝の誠を捧げて祈耕一体の生活を営み、その間いろいろな世を経て、神奈備の社を護り、ときには社殿を繕い修め、或いは改め築いて今日に至った。
この度、拝殿屋根瓦葺替を執り行うに当たって、氏子一同心を協わせ浄財を捧げて、工を起こしここに竣工を見る。
仰いで神徳の弥高を拝し奉る。
竣工奉祝祭に際し、愈々、国の隆昌と世界の共存共栄並びに氏子の繁栄を祈り、神社の栄久奉護を誓って記念とします。(境内掲示より)
「稿本千葉縣誌」による茂侶神社の由緒
三輪神社
同郡(同上)流山町大字三輪野山字北浦に在り、境内六百六十坪、祭神は大物主命、創建年月詳ならず。天正十九年徳川家康社領二十五石を寄附す。(「稿本千葉縣誌」より)
「流山市史・近代資料編」による茂侶神社の由緒
茂侶神社
大字三輪野山の鎮守にして、流山より半里許北方、字北浦即ち新川村の南端に接したる所にあり、古森鬱乎として聳え、殊に周回十丈餘の老杉は高く天を摩し三輪の御神木と稱して崇め奉れりといふ神殿荘嚴を極む、社殿、拝殿は明治初年の再建にして即ち
一祭神 大物主命
一社殿 間口七尺奥行六尺
一拝殿 間口四間半奥行三間
一境内坪數 六百六十坪
一氏子 四十戸
地理志料云、貞観十三年紀、下總茂侶神、元慶三年紀同、清宮氏曰今在三輪山村
古事記傳、御諸山、即大和三輪山也、御諸與御室、謂神祠也、取而名此山者、特尊大物主神也、以是推焉、茂侶即御諸、御發語亂、故省之
社寺分限帳、葛飾郡三輪山明神、社領二十五石、祠蔵貞観二年古宣命、作裳侶、可證
小野村胤吉氏のものせられたるほづまといふ雑誌に即ち裳侶神社古文書に、この裳侶神社は千縣東葛飾郡三輪山にありて今の社格は村社なり、延喜式神名帳に曰く、葛飾二座並に裳侶神社とあるはこれなるべし、最も古き社にしてしか祭神は大國主命を斎き奉るといへり、然るに何れの頃か、同郡栗ヶ澤村(時今高木村)も又裳侶神社ありて、そか祭神は大己貴命、經津主命の二柱を斎き奉りしなり、故に神名帳所載の神社何れの御社とも定め難けれども、先に擧げたる三輪山村に鎮り座しますを古よりの御社と聞えたり、其は祭神大國主命一柱といふより、村名の三輪山村といふによりて思へば、何時の頃か、大和國城上郡大神々社にまします大神をば、此處に遷し奉りて後村名を然云へりしなるべし、他に由緒ありしか、また大國主神といふもの、大物主神の亦の名に座せば、此處にては大國主神と傳へしなるべし、(「流山市史・近代資料編」より)
「千葉縣東葛飾郡誌」による茂侶神社の由緒
三輪神社
流山町三輪野山にあり、指定村社にして大物主命を奉祀す、境内坪數六百六十坪、社殿間口七尺奥行六尺、拝殿間口四間半奥行三間、境内盛鬱幽邃にして神殿荘厳を極む、其由緒は左の舊記を参考すべし。
(中略)
由緒書
爰に、本社の由来を温ぬるに、年代不詳印波の西の高臺は魔神の災害多く、蒼生の困難に加はるとき、下毛野君来りて物部の八十手が作れる如き物を作りて、大物主大神を斎き奉りて、災を攘ひ魔神を遠ざく、是に於て五穀漸く成りて百姓業に安んぜり。
太神神社の神號は、下毛野君の始祖豊城命夢に自ら三諸山に登りて、八回槍を弄し、八回刀を撃ぬとの夢辞に因みて、土地を八木と名づけ、八木郷と稱し、神社を山名の諸(茂侶)に因て茂侶神社と名づけしとぞ、村名を三輪山に因みて三輪野山とせしは後のことなり。
本社は八本の大杉を以て神木とし、祭祀の供物は八十手が作る所の祭物皆八の數を以てして、毎年一月ようかの祈念年祭の八升の鏡餅を神前に供へて、之を氏子の分割するを神賀楽餅と稱して今尚ほ之を行へり、神木の大杉寛永年中には二本となり、今枯れて其根片耳存せり。
(中略)
茂侶神社 成田参詣記
葛飾郡の三輪山村にある三輪山明神なるべし、此社社領二十五石ありて別當を神宮寺と云、元は祠官の人もありしと云へり(「千葉縣東葛飾郡誌」より)
茂侶神社所蔵の文化財
- 茂侶神社ヂンガラ餅行事(流山市指定無形民俗文化財)
茂侶神社ヂンガラ餅行事
茂侶神社は大物主命を祀り、平安時代の書物「延喜式」にその名を記された神社であると考えられている。
毎年一月八日(最近は最寄の日曜日)三輪野山地区のオビシャが行われる。神前には八升の御神酒、八升の餅、八種類の野菜の煮物が供えられる。祭典、トウ渡し(年番の引継ぎ)、直会の後若衆が大きな供餅を引きちぎりあい、奪いあう「餅取り」を行う。行事はかつては近郷から若集が集まり裸で餅を奪いあうもので、奇祭とよばれている。餅の割れ方でその年の作柄を占ったと言われる。(流山市教育委員会掲示より)
茂侶神社の周辺図
参考資料
- 「流山市史・近代資料編」
- 「千葉縣東葛飾郡誌」
- 「稿本千葉縣誌」