深井山浄信寺|十夜寺
浄信寺の概要
浄土宗寺院の浄信寺は、深井山稱名院と号します。浄信寺は、小倉和泉が開基となり、圓蓮社實譽鉄道大和尚(享徳2年1452年寂)が開山、西深井古谷坪にあり一大伽藍を構えていたといいます。その後いつしか当地へ移転、「十夜寺」と称されていたそうです。
山号 | 深井山 |
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院号 | 稱名院 |
寺号 | 浄信寺 |
住所 | 流山市東深井71 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
浄信寺の縁起
浄信寺は、小倉和泉が開基となり、圓蓮社實譽鉄道大和尚(享徳2年1452年寂)が開山、西深井古谷坪にあり一大伽藍を構えていたといいます。その後いつしか当地へ移転、「十夜寺」と称されていたそうです。
「千葉県浄土宗寺院誌」による浄信寺の縁起
当山は、もと西深井古谷坪(現地点より北西約五〇〇メートル)にあって一大伽藍を構えていたといわれる。現に西御門とよばれる地名の残っているのは、往時の名残りでもあろう。およそ二〇年ほど前、野田市在住の国学院大学の某教授が、その遺跡(現在は畑地になっている)から瓦・礎石等を発掘したことがあり、市の博物館に陳列されている。現在地への移転の時期・事由など一切不詳であるが、おそらく古文書・什物等もその間に紛失したものであろうと推量される。しかし現在の位置は日光街道に面し、諸大名の参勤交代の行列など往来が頻繁であったと伝えられるから、移転も相当古い時代にさかのぼるものと思われる。
また、戦前までは田畑四町歩余りを保有し、小作料・年貢米九〇俵等が年収の基礎になっていた。十夜の田・施餓鬼の田などを資に、それぞれ盛大な法要が営まれ、「十夜寺」の名で知られていたが、戦時食管方・戦後の農地解放等で事情は一変してしまった。昭和三三年、寺有の山林三町歩余りのうち約一町三半を売却して資金とし、本堂屋根を瓦葺に改修した。
御本尊の阿弥陀仏は、製作年代・作者ともに審らかにしないが、藤原時代の定朝式の特徴を備えた古い作風である。また両大師の座像は、当山一八世・心譽上人が、江戸浅草の釜谷宗兵衛の協力のもと、助力者千人に勧進して、元禄一五年一〇月一五日に造立したものであると伝えられる。(「千葉県浄土宗寺院誌」より)
浄信寺の周辺図