薬法山福性寺|関東三十三観音霊場、流山七福神の毘沙門天
福性寺の概要
真言宗豊山派寺院の福性寺は、薬法山と号します。福性寺の創建年代等は不詳ながら、正保年間(1645-1648)に中興したといいます。明治時代には、弘法大師が江ノ島で炭で造像したと伝える弁財天が信仰を集めたもののその後荒廃、昭和48年に住職となった勝又俊弘氏の尽力により寺門興隆、昭和61年に発足した流山七福神の毘沙門天となった他、関東三十三観音霊場8番となっています。
山号 | 薬法山 |
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院号 | - |
寺号 | 福性寺 |
住所 | 流山市平方169 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
福性寺の縁起
福性寺の創建年代等は不詳ながら、正保年間(1645-1648)に中興したといいます。明治時代には、弘法大師が江ノ島で炭で造像したと伝える弁財天が信仰を集めたもののその後荒廃、昭和48年に住職となった勝又俊弘氏の尽力により寺門興隆、昭和61年に発足した流山七福神の毘沙門天となった他、関東三十三観音霊場8番となっています。
「千葉縣東葛飾郡誌」による福性寺の縁起
平方に福性寺(新義真言宗豊山派)(境内佛堂の一なる辨天堂に安置する辨財天には弘法大師が天長七年七月七日相州江ノ島に於て一萬座護摩修行結願の砌其炭を以て作りしものなりとの銘記を存せり)(「千葉縣東葛飾郡誌」より)
境内石碑による福性寺の縁起
福性寺縁起
開創縁起は不詳。正保年間中興とす。本尊は大日如来。飛地境内は仙適坊・観音坊がある。仙適坊の本尊様は、阿弥陀如来両脇侍像一(高さ1m位、江戸時代の作)であったが貴重な仏像なので現在は本堂に移されている。観音坊には、観音様がまつられていて、周辺住民の信仰を仰いでいる。明治の末期には大変栄えた弁天信仰(鎌倉八幡宮の灰で練って造られ、お厨子に入った江戸時代の作)であったがその後は面影もなく荒れ果てた。
昭和六十年流山七福神が発足し毘沙門天が境内に安置されている。七福神の起源は「仁王般若経」の「七難即滅・七福即生・万姓安楽・帝王歓喜」の語によるといわれています。毘沙門天の福徳は開運招福、七難即滅にあります。昭和六十一年より、ぼけ封じ関東三十三観音霊場第八番札所となる。
初代中興の祖勝又俊弘昭和十七年千葉市に生れ、のち廣徳院俊教の室に入る。(父俊教は真言宗長者、真言宗豊山派第二十五世管長、総本山長谷寺第七十九世化主)昭和四十八年流山市福性寺住職となり庫裡客殿の建築本堂の増築等を手がけ再建の礎を築きまた宗務所に勤務檀信徒教化寺門興隆に努めた。
昭和六十一年六月九日遷化世寿四十三才。
鐘楼堂建立の計画は中興俊弘の代からの決議であったが俊弘遷化の為一時中断されていた。平成六年檀信徒からの強い要望により再び建立の計画が持ち上がった。同年から計画を進め遂に平成八年念願の鐘楼堂が檀信徒一同の協力により建立された。またこの事業は興教大師九百年御生誕の記念とされた。(境内石碑より)
福性寺の周辺図