菊田神社|習志野市津田沼の神社
菊田神社の概要
菊田神社は、習志野市津田沼にある神社です。菊田神社は、弘仁年間(810-23)の創建といわれ、藤原師経が流罪となった治承4年(1180)当地に辿り着いたことから崇敬を受けたといいます。宝暦年間(1751-1763)に菊田大明神と改称、明治44年(1911)に村内の大山祇神社・八坂神社・琴比羅神社を、大正元年に稲荷神社・水神社・雷神社を合祀したといいます。
社号 | 菊田神社 |
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祭神 | 大己貴命、藤原時平命 |
相殿 | - |
境内社 | 金刀比羅神社、三峯神社、子安神社、大杉神社、道祖神社 |
住所 | 習志野市津田沼3-2-5 |
祭日 | 10月19日 |
備考 | - |
菊田神社の由緒
菊田神社は、弘仁年間(810-23)の創建といわれ、藤原師経が流罪となった治承4年(1180)当地に辿り着いたことから崇敬を受けたといいます。宝暦年間(1751-1763)に菊田大明神と改称、明治44年(1911)に村内の大山祇神社・八坂神社・琴比羅神社を、大正元年に稲荷神社・水神社・雷神社を合祀したといいます。
「習志野市史」による菊田神社の由緒
菊田神社
久々田村(現津田沼)の産土神で、祭神は大己貴命。もと久々田明神と称していたが、宝暦年間(一七五一~六三)に菊田明神(神社)と改称した。平安時代初期の弘仁年間(八一〇~二三)の創建といわれ、治承五年(養和元年、一一八一)に藤原師経が罪により下総国に流されたとき、ここを永住の所と定め社殿を改築して久々田明神と称するようにしたとある。とすれば創建は平安時代後期のことか。本殿は正保三年(一六四六)と寛保二年(一七四二)に再建された。神主は植草氏の世襲で、神祇管領長上の吉田家からの元禄一三年(一七〇〇)・延享二年(一七四五)・寛政八年(一七九六)などの神道裁許状が伝わる。明治初期の本殿の規模は間口一間・奥行一間。明治四四年(一九一一)に村内の大山祇神社・八坂神社・琴比羅神社を、大正元年に稲荷神社・水神社・雷神社をそれぞれ合祀した。このうち水神社は慶長二年(一五九七)に、八坂神社は元和四年(一六一八)に、大山祇神社は承応三年(一六五四)に勧請されたと伝えられる。(「習志野市史」より)
千葉県神社名鑑による菊田神社の由緒
往昔、当神社は久々田大明神と称し、宝暦年間、桃園天皇の御宇に社名を菊田大明神と改称した。久々田の郷の守護神として祀られ、国土安穏・五穀豊穣・厄難除け・縁結び・安産・商売繁昌の神として崇敬され信仰を集めている。(千葉県神社名鑑より)
「稿本千葉県誌」による菊田神社の由緒
菊田神社
同郡(千葉郡)津田沼町大字久々田字宮越に在り、境内千五百坪、大巳貴命を祀る。社傳に云ふ、治承年中之を創建すと。(「稿本千葉県誌」より)
境内掲示による菊田神社の由緒
古伝によれば、当神社は久久田大明神と称して、弘仁年間(西暦八一〇年代)今より約一、二〇〇有年前より御社として祭祀されてありました。当時は、この境内地は小嶋であって、この嶋を中心として東西両側は丘で、砂土堆積している入江でありました。住民の多くは西側の丘に住居を構えて生活をして居りました。住民は嶋の上に鎮座されていた御社、即ち久久田大明神を産土神および氏神として奉斎信仰していました。なお、旧九月十九日を例祭の日と定めて、年毎に祭事を執行していました。また、住民は地内並びに周辺(近隣)の人と縁結びしますと、これがまことに夫婦円満の家が多く出生児達もみんな丈夫に生長し、長命の人も多く、それ故に住民はこの久久田大明神を特に縁結びの神、厄難除の神、安産の神として崇敬し、商売繁昌の神(後年この地に商人が出来て、このお宮に祈願したところ何れも商売が繁昌した)としても崇敬しました。
治承四年、藤原師経、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り、相模国より船に乗船し相模灘を経て袖ヶ浦にと来ましたところ、海上少し荒れていた為に何処か波静かな所はないかと探し求めていましたところが、たまたま久久田浦の入江と嶋を発見しましたので、一同はここに船を漕ぎ来たりてこの嶋に着船上陸しますと、住民達が崇敬しているお宮がありました。即ち久久田大明神のお宮で、師経卿、師長卿は無事に此処まで安着の出来たことはこの祭神の御神徳によるものであるとして深く感銘されて、この御社を崇め奉りてこの地を安住の地と定めることとし、同時に祖先の人皇六十代醍醐天皇の御宇延喜左大臣藤原時平命を合せ祀り住民と共に奉斎崇敬しました。後に師経の一族は三山の郷(現在の二宮神社の鎮座の地)に移住したと伝えられています。
その後星移り年変りて入江も浅瀬となり、この嶋の土と東西の丘の土を採取し浅瀬に盛土して水田を拡げて氏神の社名に相応しく永く久しく栄える国として耕作するようになりました。またこの境内地が船の形をしているのは、師経一族郎党が着船したのを記念とするために浅瀬を盛土するときにこの形を造ったと伝えられています。
御社号改名
寳暦年間桃園天皇の御代に社名を菊田大明神と改名(古老の云伝えによれば、菊は吾が国の名花、菊文字は久久の文字よりも御社名には相応しいとの所以によって改名されました。)
御社殿
康元元年に木造に改造営、慶長二年五月、正保三年九月、寛保二年九月、「寳暦三年九月拝殿を造営」寛政八年十一月、文政三年八月、弘化三年九月に夫々改造営、明治二十六年十二月に拝殿玉垣再造営、昭和四十八年九月、本殿、拝殿屋根銅板瓦葺に改修、平成七年九月神輿新調、神輿庫改築。
合祀
大正元年十一月、区内各町(本郷、下宿、浜宿)に鎮座されていた八坂神社、金刀比羅神社、大山祇神社、水神社、稲荷社、雷神社の御祭神を合祀。(境内掲示より)
菊田神社の周辺図