西大須賀八幡神社|旧香取郡・埴生郡80ヶ村余りの鎮守
西大須賀八幡神社の概要
西大須賀八幡神社は、成田市西大須賀にある神社です。西大須賀八幡神社の創建年代等は不詳ながら、天元5年(982)に創建、中世には千葉支族大須賀氏の尊崇を受けて栄えたと伝えられます。古くより近郷の鎮守として祀られ、香取郡・埴生郡80ヶ村余りの鎮守として祀られていたといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には社領10石の御朱印状を受領、明治維新後の社格制定に際し、印旛県の郷社に列格したものの、県の再編に伴い、明治6年村社とされ、近郷13ヶ村の鎮守として祀られていました。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 息長帶比賣命、品陀和気命、大鷦鷯命 |
相殿 | - |
境内社 | 久志社、石土社、子安社 |
例祭日 | 春季例祭4月15日前後の土日、秋季例祭10月15日 |
住所 | 成田市西大須賀1426 |
備考 | - |
西大須賀八幡神社の由緒
西大須賀八幡神社の創建年代等は不詳ながら、天元5年(982)に創建、中世には千葉支族大須賀氏の尊崇を受けて栄えたと伝えられます。古くより近郷の鎮守として祀られ、香取郡・埴生郡80ヶ村余りの鎮守として祀られていたといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には社領10石の御朱印状を受領、明治維新後の社格制定に際し、印旛県の郷社に列格したものの、県の再編に伴い、明治6年村社とされ、近郷13ヶ村の鎮守として祀られていました。
境内石碑による西大須賀八幡神社の由緒
八幡神社由緒
勧請年記不詳なれど萬寿一〇二四年間八月十五日に祭りはじまると永仁元年(一二八三)に記する書あり、その後天元五年壬年今の地に社立すると内々陣左戸裏に記あり
明治初期までは数多くの集落が氏子として神社を支えていたが、現在では西大須賀・新川・四谷地区を中心として滑川・猿山・大菅・青山・倉水が氏子(境内石碑より)
「下総町史」による西大須賀八幡神社の由緒
八幡神社
大須賀の産土社で、息長帯比賣(神功皇后)・品陀和気神(応神天皇)・大鷦鷯神(仁徳天皇)を杷る。社伝によれば天元五年(九八二) の創建といい、中世には千葉支族大須賀氏の尊崇を受けて栄えたと伝える。また、明治時代の社寺明細帳等によれば、永長元年(一〇九六) の古文書を有する旨されているが、現在は所在不明である。いずれにせよ、当社は江戸時代以前から続く古社である。
天正十九年(一五九〇)には、徳川家康から一〇石の土地を与えられ、以後幕末に至るまで朱印地として継続した。寛文九年(一六六九) には、神職の飯塚日向掾正貞が恒例神事を勤める時、風折烏帽子と狩衣を着用することを京都の卜部(吉田)兼連から許されている。(「下総町史」より)
千葉県神社名鑑による西大須賀八幡神社の由緒
勧請年代等不詳だが、内々陣左戸裏に「天元五壬年今ノ地に社立」と記す。また永仁元年記の縁起書一枚あり、撰者・書者の氏名はないが、文中に「万寿年間八月十五日祭始マル」とある。明治四年一二月郷社、明治六年五月村社に列格、以後滑河旧町民を氏子とする産土神として信仰の中心神社となっている。(千葉県神社名鑑より)
「稿本千葉県誌」による西大須賀八幡神社の由緒
八幡神社
香取郡滑河町大字西大須賀字曾根に在り、境内二百五十坪、譽田別尊・大鷦鷯尊を合祀す。社傳に云ふ、天元五年の創建にして往時本郡及び埴生郡八十餘村の總鎮守たりと。天正十九年徳川家康社領十石を寄附す、明治六年近郷十三ヶ村の氏神となす、境内末社四座あり。(「稿本千葉県誌」より)
西大須賀八幡神社所蔵の文化財
- 西大須賀の神楽(成田市指定無形民俗文化財)
西大須賀の神楽
江戸時代より受け継がれてきた獅子舞で、西大須賀のここ八幡神社と耀窟神社の春の例祭(4月15・16日前の土曜日、日曜日)に西大須賀神楽保存会によって奉納されています。現在下総地区で唯一伝承されている獅子舞であり、剣の舞・悪魔払い・怒(病気・怪我などの患部を噛んで治す治療の舞)の3部で構成されています。耀窟神社の湯立て神事と古くから同一行事であったと考えられており、伊勢系の神楽として古式様式を残す貴重な民俗芸能です。(成田市教育委員会・西大須賀神楽保存会掲示より)
西大須賀八幡神社の周辺図