滑河山龍正院|成田市滑川にある天台宗寺院

猫の足あとによる千葉県寺社案内

滑河山龍正院|滑川観音、坂東三十三ヶ所観音霊場

龍正院の概要

天台宗寺院の龍正院は、滑河山と号します。龍正院は、仁明天皇の承和5年(838)、城主小田将治が凶作に苦しむ村民を救うため法華経を読経、満願の日に出現した観世音菩薩像を本尊として創建、慈覚大師が開基したといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には寺領5石の御朱印状を受領、坂東三十三ヶ所観音霊場28番として古来より崇敬を集め、数多くの寺宝を有しています。仁王門は、国重要文化財に、本堂は千葉県文化財にそれぞれ指定されています。しもふさ七福神の毘沙門天です。

龍正院
龍正院の概要
山号 滑河山
院号 龍正院
寺号 -
住所 成田市滑川1196
宗派 天台宗
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -



龍正院の縁起

龍正院は、仁明天皇の承和5年(838)、城主小田将治が凶作に苦しむ村民を救うため法華経を読経、満願の日に出現した観世音菩薩像を本尊として創建、慈覚大師が開基したといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には寺領5石の御朱印状を受領、坂東三十三ヶ所観音霊場28番として古来より崇敬を集め、数多くの寺宝を有しています。

境内掲示による滑川霊堂について

滑河山縁起
滑河山龍正院は、坂東二十八番の札所にして、仁明天皇の承和五年(約一二四十年前)慈覚大師の開基本尊は十一面観世音菩薩、城主小田将治が凶害に苦しむ民百姓を救うため七日間の法華経読誦の満願の日に小田川の朝日ヶ渕より御出現され当地におまつりしたところ人々は蘇生の思いをしたと云う。鎌倉幕府により坂東札所観音に定められた。(境内掲示より)

「香取郡誌」による龍正院の縁起

滑河山龍正院
同町(滑川町)滑川區に在り域内千四百六十五坪天台宗にして十一面觀音を安置す像は佛工定朝の作なりと長一丈二尺許寺傳に曰ふ仁明帝承和七年庚申小田原城主将治朝日淵に游漁し長一寸二分の觀音及び地蔵の像を感得し因て寺院を建つ本寺即ち是れなり得るところの像を本尊胎中に納れ本堂の側に一堂を建て之を船越地蔵堂と稱し以て地蔵を安置す天正十九年辛卯徳川家康寺領五石を寄附す元禄十四年辛已本堂を修造し屋宇は覆ふに銅瓦を以てせり坂東廿八番の札所と稱し近傍に在て著名の寺院たり蔵するところ後西院天皇の和歌一品公辨親王の扁額及び其他の寶物あり本寺の二王門は其建立尤も往古に在りて飛騨大隅なるものゝ意匠に因りしなりと本郡中建物の最古なるものと爲す境内佛堂四宇及び寶篋塔あり(「香取郡誌」より)

「稿本千葉県誌」による龍正院の縁起

滑川山龍正院
同町(香取郡滑川町)大字滑川字新宿にあり、境内千四百六十五坪天台宗なり。寺傳に云ふ、僧圓仁の創建なり、建保四年八月大風の爲に堂宇破壊し永仁六年再建し元禄六年之を修造す、即ち今の堂宇なりと。本堂は堂葺にして方十一間、十一面觀音像を安置す、坂東二十八番の札所なり、堂前に仁王門あり建築頗る古く八脚門にして屋根は四注造茅葺なり、大正五年五月特別保護建造物に編入せらる。仁王像も亦古色を存す、運慶の作なりと云ふ。又地蔵堂あり船越地蔵と稱す、彌陀堂・辨天堂等あり、徳川氏の時寺領五石を付す、詣賽する者多くして香火常に絶えず。(「稿本千葉県誌」より)


「下総町史」による龍正院の縁起

龍正院
滑川観音の名で知られる滑川山龍正院は、縁起では承和七年(八四〇)の草創と伝える古刹である。本尊は十一面観音。近世以前の文献類は知られていないが、本堂裏から出土したという古瓦は古代のものと想定され、当寺が平安時代に開創された傍証といえよう。
当寺はまた、坂東観音札所第二十八番の寺として栄えて来たが、これも古くから有力な寺院であったことの証拠である。坂東札所は西国札所にならって、鎌倉時代前期ごろに成立したものと考えられており、室町時代に入ると庶民の間にも巡礼をする者が増えた。当寺に残る鋳銅鰐口は永正十三年(一五一六) の製作で、室町時代のものとしては大型の優れた遺品で、当時の繁栄を偲ばせる。しかし、この鰐口の銘文には「行川山勝福寺」とあり、龍正院の名称がいつから固定したのか今後の課題を投げかけている。
そのように、古代・中世の当寺については未詳の部分が多いが、一応宝永七年(一七一〇)成立の略縁起を見てみよう。これによれば本尊十一面観音は定朝の作で、脇侍は不動明王と毘沙門天である。観音の胎内には朝日渕からすくい上げられた一寸二分の小像が籠られている。この像の由来は、承和五年諸国が天候不順で、当地方では五月に大雪が降り、五穀の種を失って餓死する者が多数あった。当地の領主小田宰相将治はそれを救わんと、七日間法華経二十八部を読誦したところ、観音が女性の姿で現れ、汝は常に我(観音)を念じるから、ここに甘露水の湧かせるので、皆に教えて幸福を与えよ。と言って姿を消した。その光明の消えた小田川の浦に行ってみると、老僧が小舟で網をひいていたが、やはりたちまち姿が消え、音楽が四方に聞こえた。そして、地蔵菩薩が一寸二分の十一面観音を抱いて淵から現れ、光明が菊水山を照らした。これが当寺の舟越地蔵である。将治が見ると、まさに光明の輝く所から甘露の水が湧き出していた。この水は病を直し、道に倒れている者もたちまち元気にする霊水であった。将治は信心肝にめいじ、域内に御堂を建立して本尊を安置した。この観音の効験は偉大で、諸人も深くこれを信心した。それより一三年後、修円法師が慈覚大師が大原野で行った修業伝授と同じ如法念仏三昧をこの所で開催した。
縁起はこの後も、さまざまの観音の奇跡を記すが、割愛する。いずれにせよ、いずれの縁起もそいずれの縁起もその性質上、仏・菩薩の効験、広く知られた高僧の来訪、古い来歴、不可思議な現象等を綴るものなのである。
近世に入るとすぐ、天正十九年(一五九一)に龍正院は徳川家康から五石の朱印地を与えられた。この朱印地は以後も継続して与えられ、将軍の代がわりごとに朱印状が交付されたので、その写しが残されている。
享保年聞には境内に銅造宝篋印塔が建立された。これは広く寄付を呼びかけて建立されたもので、享保元年(一七一六)に勧化帳を回しはじめ、塔は三年四月に完成している。この勧化帳には「菊水滑河山八大竜正院勝福聚寺」と記されている。
江戸時代の龍正院境内は広大であり、文政七年(一八二四)に書かれた竹村立義の『鹿島参詣記』には「大伽藍にして境内広し」とあり、境内の図には神明社と末社五棟も描かれている。
幕末近い天保年間になると、当寺の財政はかなり苦しくなっていた。天保五年(一八三四) に住職が、村役人と檀家にあてた証文によると、凶作がうち続いて収納物が乏しく、江戸での勧化も時節柄か思うよう集まらなかった。また嵐で本堂他が破損して壇家に出費をさせた。今後自分は隠居同然につつましく台所で暮らすので、寺財政について、村役人と檀家で運営して協力してほしいと願っている。しかし、寺財政は容易には好転しなかった。天保十二年(一八四一)には寺財政を賄方に一任し、それには具体的にどんな質素倹約を実行するかという証文を寺から関係者に出している。
そうした状況の中でも、滑川観音への信仰は衰えることはなかった。天保九年(一八三八) に境内の船越地蔵堂の再建のために寄付を募った勧化帳によれば、寄付者は地元と近隣のみならず、房州・上総・江戸・常陸・出羽・信州・越中・紀伊・陸奥などに及んでいる。(「下総町史」より)

龍正院所蔵の文化財

  • 仁王門(国指定重要文化財)
  • 本堂(千葉県指定文化財)
  • 龍正院銅造宝篋印塔一基附銅造棟札一枚(千葉県指定文化財)
  • 鋳銅鰐口(千葉県指定文化財)
  • 龍正院の芭蕉句碑と夫婦松(成田市指定文化財)

本堂

五間四方一重入母屋造の雄大な仏堂で、屋根は銅板瓦棒葺である。四周の切目縁は和様の高欄とし、柱は円柱である。
前面二間通りを外陣とするが、正面三間の入口は当初から建具のない特殊な構造となっている。これは一般庶民がいつでも観音様の慈悲にすがれることを願ってのことと思われる。
各部の様式は、禅宗様を主体とする折衷様式で、建立年代は修理時に発見された墨書によって、元禄十一年(一六九八)であることが明らかとなった。(千葉県・成田市教育委員会掲示より)

龍正院銅造宝篋印塔一基附銅造棟札一枚

総高四・九七メートル、最下段の基壇一辺は三・三七めーとる、銅製台座の一辺は一・四六八メートルで、地表面よりの高さは一・四六メートルある。
瓦棒葺形式の四柱屋根・二重疎垂木・拳鼻付の出組組物・中備の本蟇股等本格的な建築様式を用いて精巧に作られ、美術的価値も高い。
製作年代・作者は、銅造棟札により享保三年(一七一八)四月五日、江戸神田住人小幡内匠によって鋳造されたことがわかった。
また、台座の格狭間部分には造営費を寄進した人人の名が多数刻まれていることは、庶民信仰の盛んであったことが知られる。(千葉県・成田市教育委員会掲示より)

龍正院の芭蕉句碑と夫婦松

睦まじく樹齢を重ねた名木夫婦松です。併置される句碑は寛政五年(1793)の銘で、”観音のいらか見やりつ華の雲”の芭蕉の句が刻まれ、当寺にも心が通じるものがあります。なお、当寺縁起に請う”菊水井・朝日ヶ淵”などの伝承地もあります。(成田市教育委員会掲示より)

滑河山龍正院の周辺図