鳴鐘山東勝寺|宗吾霊堂、関東百八地蔵霊場
東勝寺の概要
真言宗豊山派寺院の東勝寺は、鳴鐘山と号す真言宗豊山派の別格本山です。東勝寺の創建年代等は、火災により古記録を焼失してしまい不詳ながら、古くより著名な寺院だったといいます。佐倉藩の悪政を幕府に訴えた当地の名主木内惣五郎が子息と共に処刑されたものの、義民宗吾として庶民に祀りあげられたころから百年後に名誉を回復、宗吾霊堂として祀っています。関東百八地蔵霊場70番です。
山号 | 鳴鐘山 |
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院号 | - |
寺号 | 東勝寺 |
住所 | 成田市宗吾1-558 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
縁日 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東勝寺の縁起
東勝寺の創建年代等は、火災により古記録を焼失してしまい不詳ながら、古くより著名な寺院だったといいます。佐倉藩の悪政を幕府に訴えた当地の名主木内惣五郎が子息と共に処刑されたものの、義民宗吾として庶民に祀りあげられたころから百年後に名誉を回復、宗吾霊堂として祀っています。
「稿本千葉県誌」による東勝寺の縁起
鳴鳴鐘山東勝寺(成田市公津村大字)
同郡同上(印旛郡舊印旛郡)公津村大字下方字鐘打に在り、境内千八十三坪、眞言宗なり。本寺は著名の古刹なれども、火災に罹り舊記を焼失し、開創年歴詳ならず、寛文八年十月法印澄祐を以て中興開山とす、木内宗吾の菩提所にして其木牌あり。(「稿本千葉県誌」より)
境内掲示による宗吾霊堂について
宗吾霊堂は真言宗豊山派東勝寺の管理する佛堂であります。
今より三百六十余年前承応年間下総佐倉藩の悪政により生活に苦しむ人々を救う為、公津村名主(木内惣五郎)は徳川四代将軍家綱公に直訴し十万の人々の命を救われました。
しかしその罪により承応二年(一、六五三年)に本人と四人のお子様は刑に処され、その遺骸を当山住職等が現在のお墓の地(当時の刑場跡)に埋葬されました。
その後、百年祭の時(一、七五二年)に佐倉藩主堀田正亮公により「宗吾」の法号を贈られ立派な佛位を得られてより宗吾様を祀るお堂を宗吾霊堂と称するのであります。
即ちお墓では偉大な宗吾精神(大慈大悲の広い心)を敬慕し、お堂では信徒の方々が所蔵成就を御祈祷し、現世のご利益を授かるのであります。(境内掲示より)
鳴鐘山東勝寺の周辺図