岩富熊野神社|佐倉市岩富の神社

猫の足あとによる千葉県寺社案内

岩富熊野神社|佐倉市岩富の神社

岩富熊野神社の概要

岩富熊野神社は、佐倉市岩富にある神社です。岩富熊野神社は、岩富城主(弥富城主)原左衛門尉景広が、松澤熊野神社を勧請して享徳4年(1455)に創建、岩富城の守護神として祀り、文明2年(1470)に第一回の祭礼が執行されたといいます。明治維新後の社格制定に際し、明治10年村社に指定され、明治40年神饌幣帛料供進神社に指定、明治43年には天神社、大宮神社、道祖神社を合祀しています。

熊野神社
岩富熊野神社の概要
社号 熊野神社
祭神 家都御子神、熊野速玉神、熊野夫須美神
相殿 -
境内社 三峯神社、古峰神社、天満宮、道祖神、権現神社
例祭日 例大祭10月20日
住所 佐倉市岩富465
備考 -



岩富熊野神社の由緒

岩富熊野神社は、岩富城主(弥富城主)原左衛門尉景広が、松澤熊野神社(旭市・旧郷社)を勧請して享徳4年(1455)に創建、岩富城の守護神として祀り、文明2年(1470)に第一回の祭礼が執行されたといいます。明治維新後の社格制定に際し、明治10年村社に指定され、明治40年神饌幣帛料供進神社に指定、明治43年には天神社、大宮神社、道祖神社を合祀しています。

境内掲示による岩富熊野神社の由緒

大同元年(西暦八〇六)一一九七年前
紀伊国 熊野神社ノ神使 海路 下総国三川浜ニ下リ 松澤ニ鎮座ス 造営ハ 千葉城主千葉常胤 自ラ コレニ当ル 松澤熊野神社トシテ 名高ク 天下ノ崇敬ヲ 集メル
神使 ソノ後 印旛沼ニ下リ 鹿島川ヲ ノボリテ 岩富ニ着ス
享徳四年(西暦一四五五)五四八年前
千葉氏重臣 岩富城主原左衛門尉景廣 熊野神社ヲ 岩富城ノ守護神トシテ祀ル コレ地方衆庶ノ 崇敬深キ 岩富熊野神社ノ 御起源デアル
文明二年(西暦一四七〇)五三三年前
岩富城主 原左衛門尉景廣 長福寺開祖 日意ト 相協議シテ 十月二十日 第一回祭禮ヲ トリ行フ
明治十年(西暦一八七七)一二六年前
千葉県ヨリ 村社ノ指定ヲ受ク(境内石碑より)

「千葉県神社名鑑」による岩富熊野神社の由緒

由緒不詳。明治三九年九月二九日に記した当時の総代の記録によれば「文明二年七月弥富城主原左エ門尉景広(千葉氏の家臣原氏の末裔といふ)が日意上人の命によって祀られ、原氏は北条氏の滅亡と共に亡びたが、神社をたいへん崇敬された。日意上人は日蓮宗の僧で博識の人であった。明治四〇年から神饌幣帛料が供進されて祭儀が盛大に執行はれた」と記されている。(「千葉県神社名鑑」より)

「印旛郡誌」による岩富熊野神社の由緒

村社熊野神社
岩富村字堀尻にあり伊弉冊命菅原道真公久那斗神大巳貴命を祭る紀伊國牟婁郡在馬村にある熊野神社の遷しなりと口碑に傳ふも創立の年時を詳にせず舊記によれば彌富城主原左衛門尉景廣家の氏神にして文明二年二月日意上人に命じて祭らしむ明治四十三年十二月九日許可を得て仝所字峯無格社天神社仝所字大宮無格社大宮神社仝所字宮前無格社道祖神社を本社に合祀す社殿間口二間奥行に剣境内五百二坪(官有地第一種)の廣きに亘り老樹鬱蒼として聳ゑ人をして覺わず襟を正さしむ維新後(以前は不詳)は毎年十月廿日を以て例祭日と定め式部寮制定の祭式により祭典を執行す明治四十年より神饌幣帛料の指定を受け大に神社の面目を改め祭典には神職岩藤氏は勿論村長村名名譽職員氏子(百十戸)等参列嚴粛に式を行ふ管轄廳まで三里二十町境内神社一社有次の如し
一、三峯神社 伊邪那美命を祭る由緒不詳間口一間奥行五尺の建物なり(神社明細帳)(「印旛郡誌」より)


岩富熊野神社所蔵の文化財

  • 岩富熊野神社境内木(スギ、コナラ、アカガシ、スダジイ)(佐倉市選定保存樹)

岩富熊野神社境内木

神社創建の頃に植えられた樹林として景観に優れ、単木としてもスギ・アカガシ・スダジイ等がある。(佐倉市掲示より)

岩富熊野神社の周辺図


参考資料

  • 千葉県神社名鑑
  • 「印旛郡誌」