岩富城跡。佐倉市岩富にある旧跡・名所
岩富城跡の概要
岩富城跡は、佐倉市岩富にある名所旧跡です。岩富城跡は、文明年間(1469-1487)に原左衛門尉景廣に築城したといいます。豊臣秀吉の小田原攻めにより岩富原氏が天正18年(1590)に滅んだ後、北条氏勝が岩富城主として入城、氏勝の養子氏重が慶長18年(1613)に下野国富田へ転封され、岩富城は廃城となっています。
旧跡・名所名 | 岩富城跡 |
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みどころ | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 佐倉市岩富 |
備考 | - |
岩富城跡の縁起
岩富城跡は、文明年間(1469-1487)に原左衛門尉景廣に築城したといいます。豊臣秀吉の小田原攻めにより岩富原氏が天正18年(1590)に滅んだ後、北条氏勝が岩富城主として入城、氏勝の養子氏重が慶長18年(1613)に下野国富田へ転封され、岩富城は廃城となっています。
境内掲示による岩富城跡について
岩富城跡には、空堀と土塁に囲まれる主郭が明瞭に残っています。その主郭周辺には、城やその城下町の遺構が残り、土地の区画や高低差に往時の様子を偲ぶことができます。
戦国時代に岩富城主であった岩富原氏が、天正十八年(一五九〇)に滅んだ後、北条氏勝が相模国玉縄城(神奈川県鎌倉市)から岩富城に一万石で封ぜられました。氏勝の養子である氏重が慶長十八年(一六一三)下野国富田(栃木県栃木市)に封ぜられると、岩富城は廃城となりました。(佐倉市教育委員会掲示より)
「印旛郡誌」による岩富城跡について
岩富城址
日本外史岩富城に作るもの之なり大字岩富町に在り千葉氏の族原左衛門尉景廣此の地に城を築く文明年間のことにして今より四百五十年前なり其子九郎左衛門胤行等相紹ぎて此に居ること十世に及び天正十八年千葉氏と共に滅ぶ慶長八年(或云五年)北條氏勝此の地に封ぜられ一万石を領す十六年氏勝卒して十七年城撤せらる城址は今尚塹壕を廻らし三方低く水田を以て圍まれ大に眺望に富む
〇(新撰佐倉風土記云)在岩富町距佐倉南二里千葉族臣原左衛門景廣其子九郎左衛門胤行其子若狭守相紹居之天正十八年與千葉氏共亡矣慶長八年東照公北條左衛門大夫氏勝於十六年氏勝卒十七年城除矣(「印旛郡誌」より)
岩富城跡の周辺図
参考資料
- 「印旛郡誌」