佐倉城跡。佐倉市城内町にある旧跡・名所
佐倉城跡の概要
佐倉城跡は、佐倉市城内町にある名所旧跡です。佐倉城跡は、元和3年(1617)頃に完成した平山城で、徳川家康の命により土井利勝が築城、石材を使用しなかった城跡です。当地には、戦国時代中頃に千葉氏の一族鹿島幹胤が鹿島山城と称して築城、佐倉に本拠をおいた千葉氏も当地に本城を移転しようとしたものの果たせずにいたといいます。明治6年に軍隊歩兵第二連隊の駐屯地となり、城内施設はすべて破壊され、現在は土塁や堀の遺構が残っています。
旧跡・名所名 | 佐倉城跡 |
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みどころ | 市指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 佐倉市城内町、佐倉城址公園 |
備考 | - |
佐倉城跡の縁起
佐倉城跡は、元和3年(1617)頃に完成した平山城で、徳川家康の命により土井利勝が築城、石材を使用しなかった城跡です。当地には、戦国時代中頃に千葉氏の一族鹿島幹胤が鹿島山城と称して築城、佐倉に本拠をおいた千葉氏も当地に本城を移転しようとしたものの果たせずにいたといいます。明治6年に軍隊歩兵第二連隊の駐屯地となり、城内施設はすべて破壊され、現在は土塁や堀の遺構が残っています。
境内掲示による佐倉城跡について
佐倉城は印旛沼へ注ぐ鹿島川、高崎川を外堀とし、台地上に土塁を加えて築城した平山城で、石を用いていない。
戦国時代のなかごろ、千葉氏の一族鹿島幹胤によって初めて築かれたと伝えられ、別に鹿島山城とも呼ばれた。千葉邦胤もここに本城を移そうとしたがなかばにして果さず、のちに徳川家康がその要害に着目し、土井利勝に命じ慶長16年(1611)正月から7年間をついやし、元和3年(1617)ごろに完成した。以来、徳川幕府では江戸のまもりとして老中格の譜代の諸侯九氏を封じた。
延享3年(1746)山形から堀田氏が再び移封し、六世126年間11万石を領有して明治維新に及んだが、明治6年(1873)第一軍管第二師営の営所が置かれ城の施設はことごとくこわされた。
その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった。(境内掲示より)
「印旛郡誌」による佐倉城跡について
佐倉城
本町の西隅鹿島川の東南岸鹿島山の上にあり故に又之を鹿島城と稱す慶長十四年徳川氏土井利勝を佐倉(當時の佐倉は今の酒々井町本佐倉の邊とす)に對し命して此に城を築かしむ其の材は多く根小屋の城材及び江戸城の餘在を用ゐたりと云ふ仝十六年正月工を起し七箇年にして成る寛永十年利勝の封を徒して石川忠總を封す仝十二円忠總の封を移して松平家信を封す仝十七年其の子康信の封を徒し仝十九年堀田正盛を封す万治三年其の子正信を配し寛文九年松平乗久を封す延寶六年其の封を徒して大久保忠利を封す状況三年忠利の封を徒して戸田忠昌を封す元禄十四年其の子忠眞の封を徒して稲葉正通を封す享保八年其の子正智の封を徒して松平乗邑を封す延享三年其の子乗祐の封を徒して堀田正亮を封し十一万石を食はしめ後一万石を加ふ正順正時正愛正篤(後正睦と改む)正倫封を襲ぎ以て廢藩に至る(「印旛郡誌」より)
佐倉城跡の周辺図
参考資料
- 「印旛郡誌」