寺崎城跡。佐倉市寺崎にある旧跡・名所
寺崎城跡の概要
寺崎城跡は、佐倉市寺崎にある名所旧跡です。寺崎城跡は、馬加康胤・原胤房に攻め込まれ、千葉城から当地に逃れた千葉胤将(享徳3年1457年没)が寺崎城を築城、その後千葉胤将を武蔵へ追いやった馬加康胤の嫡子胤持が本佐倉城へ移るまでの一時寺崎城を拠点としていたといいます。寺崎神明神社は寺崎城の表鬼門、寺崎浅間神社は裏鬼門として勧請したもだといいます。
旧跡・名所名 | 寺崎城跡 |
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みどころ | 史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 佐倉市寺崎 |
備考 | - |
寺崎城跡の縁起
寺崎城跡は、馬加康胤・原胤房に攻め込まれ、千葉城から当地に逃れた千葉胤将(享徳3年1457年没)が寺崎城を築城、その後千葉胤将を武蔵へ追いやった馬加康胤の嫡子胤持が本佐倉城へ移るまでの一時寺崎城を拠点としていたといいます。寺崎神明神社は寺崎城の表鬼門、寺崎浅間神社は裏鬼門として勧請したもだといいます。
境内掲示による寺崎城跡について
寺崎城
「千葉家實録」「千葉大系図」「総葉概録」「千葉伝考記」などの史料を総合し、寺崎城を考察すれば、千葉氏第十四代満胤の嫡男兼胤が第十五代を継ぎ、その弟胤直が第十六代を継いだ。その頃千葉氏に内紛がおこり、胤直は弟の馬加康胤及び同族原胤房に攻められ、千葉城をすてて志摩城に逃れたが、二男胤宣は多胡城外で自刃し、胤直もまた自刃し、胤直の嫡子胤将は諸々に逃れ、寺崎に城を築いて居城した。字新小路の神明社は胤将が千葉城の神明社を勧請したものである。胤将の子則胤のとき、馬加康胤は千葉氏宗家の乗っ取りを企て寺崎城を攻撃し、則胤は武蔵国に逃れた。それより、康胤は千葉氏の正統を名のり本佐倉に城を築き、千葉氏の本城とし、嫡子胤持を寺崎城に置いたのち胤持も本佐倉城に移り、寺崎城は廃城となった。今となっては、寺崎城の縄張を知る手掛かりはなにもないが、現在地名などから推察すると、縄張の核を字新小路とした平山城へ、平坦部の先端基地として太田の砦を用い、上城堀・城堀の二つの隍により敵の襲撃を阻止し、字御門前から郭内として屋形を薬師堂付近に置き、字新小路に土塁を築き、さらに南六所神社から北六所神社の線を境として油小路・相馬小路・南小路・猫坂小路・下小路・北込小路に各曲線を設け屋形を警備した。そして屋形の守護神として表鬼門(北東)に神明社、裏鬼門(南西)に浅間社をそれぞれ勧請したものである。寺崎城の特長は、郎党が台上に住んでいたと思われる。従って田圃での農作業は台上からおりなければならず、敵の襲撃を容易にさせる危険がある。その危険を防ぐために屋形への道は迷路のように作られ、搦手は字舛ノ内から弁天橋に下りたと思われる。舛ノ内とは、城門の中に四角に作られた空き地の舛形からとった地名である。(境内石碑より)
寺崎城跡の周辺図
参考資料
- 「印旛郡誌」