稲野山千手院|佐倉五山の筆頭
千手院の概要
佐倉市井野にある真言宗豊山派寺院の千手院は、稲野山金剛盤形寺と号します。千手院は、天平年間(729-749)に春日仏師が、千手観音像を臼井石神台の精舎に安置、金剛盤形寺蓮花王院として開創したといいます。その後澄秀は、臼井氏の家臣平高胤を大檀主に迎え、井野全村を大般若布施田として寄進され、明徳3年(1392)当地へ移転し中興、稲野山金剛盤形寺千手院と改号しました。第41世宥照の代には醍醐(醍醐寺)・御室(仁和寺)の兼帯、七色法衣着用を許されるなど高い寺格を誇り、真言宗の檀琳所として、北総台地を中心に数多くの末寺門徒寺を擁していました。下総三十三ヶ所観音霊場4番、千葉寺十善講八十八ヶ所霊場57番です。
山号 | 稲野山 |
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院号 | 千手院 |
寺号 | 金剛盤形寺 |
住所 | 佐倉市井野152 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
千手院の縁起
千手院は、天平年間(729-749)に春日仏師が、千手観音像を臼井石神台の精舎に安置、金剛盤形寺蓮花王院として開創したといいます。その後澄秀は、臼井氏の家臣平高胤を大檀主に迎え、井野全村を大般若布施田として寄進され、明徳3年(1392)当地へ移転し中興、稲野山金剛盤形寺千手院と改号しました。第41世宥照の代には醍醐(醍醐寺)・御室(仁和寺)の兼帯、七色法衣着用を許されるなど高い寺格を誇り、真言宗の檀琳所として、北総台地を中心に数多くの末寺門徒寺を擁していました。
境内掲示による千手院の縁起
千手院略縁起
千手院は奈良時代、第四十五代聖武天皇の御代の天平年間(七二九年~七四九年)、春日仏師が千手観音菩薩像一体を石神(現在の臼井)の地の精舎に安置し、蓮華王院と称したことに始まります。
六百年の後、源暹(蓮華王院住職)と法流のある澄秀(千手院中興の祖)の夢枕にご本尊千手観音菩薩が現れました。光り輝き、威厳に満ち、衆生を漏れなく救う、その有難い姿に驚き、澄秀は仏法護持興隆と衆生救済を宣言しました。そして、千葉氏一族である臼井高胤の仏法信心の深さを感じ、同氏を大檀主としました。
澄秀は明徳三年(一三九二年)、兵火に罹るのを憂慮し、高胤を頼り、稲野の地に精舎を遷移しました。
お寺の名は稲の穫れる農地であるがゆえに稲野山、肥沃で穏やかな整った大地を金剛盤に見立て金剛盤形寺、院号は本尊千手観音菩薩より千手院と定めました。
そして境内地を加増し、堂宇を整え、檀林寺院(僧侶の学問修行道場)となりました。
千手院は常陸、下総、武蔵三州の叢林と称せられ、奈良、京都の本寺の醍醐・御室の兼帯、七色の法衣着用及び菊の紋章の許可を得ておりました。
江戸時代中期には寺勢が盛んになり、本山長谷寺の中本寺として北総台地(下総国)を中心に多くの末寺、門徒がありました。(境内掲示より)
「佐倉市史」による千手院の縁起
千手院(井野)
本尊千手観音、大和長谷寺末(旧)。千手院が初めて臼井の石神台に創建されたのは天平年間である(現在、その寺址からの土師の土器破片が出る)。後に井野の現在地に移したことは前篇で述べて置いたが、当寺は明治六年一月の大火で堂塔・記録文書も焼失した。そこで同寺には史料は皆無で、その調査は困難であるが、他の史料から、特に石神台から井野に移つた頃のことを、前篇の記述に附け加えることとする。臼井の石神台から井野に移した僧の澄秀については、「香取郡神崎町並木・神宮寺文書-県史料中世篇収録」では次のように解説し(筆者要約)その史料をあげている。
この神宮寺は神崎神社の別当寺で、新義真言宗智山派であるが、同寺の大般若経(大部は写経)の奥書によれば、本経を下総国臼井庄塩古郷六所宮(六所宮の位置ははっきりしないが塩古郷と呼ばれた旧川上村・同弥富村の内、或は旧根郷村内であろうか)に奉納した。またこの経の書写は貞治二(一三六一・<八南北時代>)年四月十五日より八月二十七日にかけ、この地方に在住した衆僧の写経によるものである。その十二年後、永和二(一三七六)年に貞治年間の書写の中心人物であったと考えられる僧の澄秀が、白井の石神村蓮花院に於て二巻を補写した。その奥書は次のものである。
〔巻四十〕永和二丙辰六月廿六日午尅令書写了 臼井庄石神村蓮花院澄秀
〔巻四一三一〕永和二年丙辰壬七月廿二日 臼井石神院
この神宮寺文書から見ると、一四世紀の後半に、白井庄から臼井庄にかけて真言宗の寺院が多く、そのうちでも世田(勢田)の栄楽寺(右の写経、巻九七の奥書に、貞治二太才癸卯六月廿九日、下総州白井庄世田村栄楽寺住僧金剛仏子真尊とある)、臼井石神村の蓮花院、或はまた馬渡にも写経に加わった寺院のあったことが知られる(写真参照)。この臼井石神の蓮花院は寺院明細帳に載せている略縁起によると、天平年間(八世紀初)の創建であるが、それから六百六十年程を経た明徳三(一三九二)年澄秀が現在地井野に移し、その際千手院と改定したとある(印施郡誌より)。
明徳三年は澄秀が蓮花院で大般若経二巻を補写した永和二(一三七六)年から十七年目に当るから、澄秀は臼井から井野にかけての相当期間、住持であった訳である。この移転の際、檀主の臼井氏の家臣平高胤は井野全村を大般若布施田としたと伝えている。この井野の地は中世の交通路から見ると萱田(大和田宿の北)から村上を経て井野に出で、臼井台町に達したのが近世以前の臼井道であったと考えられる節が多い。即ち江戸との往来の要地であったと思われる。因に同寺は明治六年の火災で一切を焼失したので更に詳しいことがわからないのは惜しいことである。(「佐倉市史」より)
「印旛郡誌」による千手院の縁起
千手院
井野區字前畑にあり長谷寺末中本寺にして眞言宗新義派に属す本尊は千手觀世音なり天平年間の創立にして舊と臼井石神の地にあり蓮華王院金剛般若寺と號せり明徳二年臼井氏の臣小竹五郎高胤寺を此地に移し井野全村の地を寄附して大般若布施田とす(當時寺の敷地並に地蔵の石造二体を某氏祖先に貽り一体を井野に移す共に傳へて維新の後に至る)明治六年回禄の災にかかり寺寶舊記等多く焼失す
〇(司寺畧縁記云)當院の創立は人皇四十五代聖武天皇の御宇天平年間春日佛師千手觀世音の像一軀を安置し臼井村石上の地に建立せしが其れより六百餘年の後千葉家の一族平高胤をるもの歸依渇仰の餘り若干の殿宇修繕料と賜ひて常總武三州の叢林と稱せらる然るに一盛一衰して遂に殿堂零落靈像風雨に浸汚せらる時に人皇九十六代後醍醐天皇の文保年間僧源暹之を改修せしお亦廢頽し人皇第百代後小松院の明徳三年常陸の僧源秀なるもの大檀主平高胤に至り兵變に罹らんを憂慮して現在の井野村に遷移したるも明治六年一月大火災に罹り堂塔寶庫悉皆烏有に歸せるも其後再建して現に地方有數の大寺たり
〇(寺院明細帳)明治六年罹災に舊記録類盡く焼失せり僅に略縁起の存せるあり依之按當院の創立は人王四十五代聖武天皇御宇天平年間春日佛師なる者彫刻於千手觀音像一軀安置于當院傳聞其上建築於精舎同國印旛郡臼井村字石上其處の地形恰似て金剛磐故稱金剛磐形寺蓮花院其後歴六百有余年の星霜千葉家一族平高胤なる者歸依乾仰之余寄附於若干之殿堂修繕料從爾以て降常武總三州の叢林と稱せらるると雖一盛市衰而遂殿堂門廡零落靈像身浸汚て風雨于時人王九十五代後醍醐天皇の御宇文保年中有源暹僧都言人遠挹於伊豆山宥祥上法流再令小阿興復舊古其後人王百一代後小松院の御宇明徳三年壬申歳常陸の僧都澄秀なる者大檀主平高胤至て罹兵災亡遥慮於令法久住使於精舎遷移同國仝郡井野村院號改め千手院自爾嫡々相承當院第四十一世宥照に至り後醍醐山陽於室兼帶の許可及七色着用の許可今溶て小野方の法水也堂宇間口六間奥行三間境内一千七百十一坪(官有地第四種)住職は福山宥清にして檀徒四百五十一人を有し管轄廳まで四里三十三町あり
〇(新撰佐倉風土記云)在井野村不詳開創年時舊風土記曰傳源暹僧都爲法流祖至其四世澄秀僧都在臼井石神明徳年中移此號金剛磐形寺臼井城主平高胤寄附井野崎地改名千手院而有状記明徳三年八月九日又有享保四年胤度寄大磐若布施田之証状焉
〇(地理志料云)井野千手院初在臼井白神曰金剛般若寺明徳中千葉高胤移于此改今名爲寄全村充大般若布施田其文書尚存(「印旛郡誌」より)
千手院所蔵の文化財
- 金銅五鈷杵(佐倉市指定有形文化財)
- 保存樹林(佐倉市選定)
金銅五鈷杵
千手院は、奈良県にある真言宗豊山派本山長谷寺の末寺にあたる市内を代表する真言宗寺院の一つで、本尊には千手観音を祀っています。
真言宗寺院で執り行われる儀式では、金剛杵・金剛鈴など用途に応じた特別な道具を用いますが、これらは総称して「密教法具」と呼ばれています。
金剛杵は、杵形の把の両端に鈷(きっさき)とつけたもので、その数や形によって独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵・宝珠杵などがあります。もとは古代インドの武器が源流で、その本来持っている武器性をもって心中の煩悩を打ち砕く意味があると言われています。
五鈷杵では、京都・東寺に伝わる『国宝弘法大師将来品』(唐時代)が良く知られており、その脇鈷の外縁三ヵ所に雲形をつける特徴から、雲形五鈷杵の名で呼ばれています。
千手院所蔵の金剛五鈷杵は、この弘法大師将来形の写しといわれるもので、把と鈷の接続部を四角形とし蓮弁飾りのシベを簡略化している点、鈷の鋭さが失われている点などの製作年代の下降が感じられますが、当市における密教法具の古型を知る上で貴重なものです。(佐倉市教育委員会掲示より)
佐倉市選定保存樹林
この境内木は明徳3年(1392年)に千手院が現在地に移った当時に植えられたものであるという。(佐倉市掲示より)
千手院の周辺図