勝智院|戦後に江東区から移転
勝智院の概要
佐倉市上座にある真言宗智山派寺院の勝智院の創建年代等は不詳ながら、江東区大島にあった寺院で、江戸期には大島愛宕神社・稲荷社の別当を勤め、小林一茶が一時期勝智院に寄宿していたといいます。戦後の区画整理に伴い昭和41年に当地へ移転、旧地も残され、旧地で法人登記されています。
山号 | - |
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院号 | 勝智院 |
寺号 | - |
住所 | 佐倉市上座776-6 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
勝智院の縁起
勝智院の創建年代等は不詳ながら、江東区大島にあった寺院で、江戸期には大島愛宕神社・稲荷社の別当を勤め、小林一茶が一時期勝智院に寄宿していたといいます。戦後の区画整理に伴い昭和41年に当地へ移転、旧地も残され、旧地で法人登記されています。
新編武蔵風土記稿による勝智院の縁起
勝智院
新義真言宗、亀戸村普門院末、愛宕山と号す。本尊大日を安す。開山栄鑁、延宝五年一二月一八日寂せり。(新編武蔵風土記稿より)
「江東区の民俗城東編」による勝智院の縁起
勝智院出張所
『葛西志』によれば、慶長元年(一五九六)に創立され、開山は不明で、中興開山の栄鑁は延宝五年(一六七七)に亡くなった。愛宕社・稲荷社の別当であるという。
井上脩之介の「江戸の一茶」によれば、享和三年(一八〇三、一茶四一歳)のころから文化元年(一八〇四)まで小林一茶が勝智院に住んでいた。「享和句帳」の見返しに「江戸本所五ツ目大島愛宕山別当一茶雲外 印」と署名があるそうである。その時の住職は栄順であり、栄順は俳号を白布といい、着飾派四世其日庵野逸の門人であった。野逸が一茶を住まわせることを白布に頼んだようであり、また、栄順の時代に野逸は女木塚を勝智院が管理していた愛宕社に建立したという。享和三年ごろに一茶が住んでいた場所については大島二丁目の愛宕神社(註:大島愛宕神社)という説(川島つゆ『一茶種々相』)もあるが、最近の研究、小林計一郎の『小林一茶』・矢羽勝幸の『一茶大事典』などでは勝智院説となっている。
勝智院は道路計画のため、昭和四一年に佐倉市に墓地や江東区の文化財の醤油塚も含めて移転した。現在地には出張所という建物のみが残り、活動は大島ではしていない。寺院は移転したが、檀家は現地周囲にとどまり、墓参りなどには佐倉に行っており、この地の歴史を語る上で欠かせず、また、近年まで江東区内に存続していたので記載した。(「江東区の民俗城東編」より)
勝智院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「江東区の民俗城東編」