勝全寺|佐倉市鏑木町にある曹洞宗寺院

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鹿島山勝全寺|千葉介勝胤の第三子幹胤創建

勝全寺の概要

佐倉市鏑木町にある曹洞宗寺院の勝全寺は、勝全寺は、千葉介勝胤の第三子幹胤(天文14年1545年卒)が、鹿島台に築城する際に当寺を創建したと津tらえられます。その後千葉介邦胤が改めて鹿島城を築城にとりかかる際に鏑木へ移転したといいます。

勝全寺
勝全寺の概要
山号 鹿島山
院号 -
寺号 勝全寺
住所 佐倉市鏑木町1147-1
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



勝全寺の縁起

勝全寺は、千葉介勝胤の第三子幹胤(天文14年1545年卒)が、鹿島台に築城する際に当寺を創建したと津tらえられます。その後千葉介邦胤が改めて鹿島城を築城にとりかかる際に鏑木へ移転したといいます。

「佐倉市史」による勝全寺の縁起

勝全寺
勝胤寺末であった。本尊釋迦牟尼。当寺は千葉介勝胤の第三子(或は同勝胤の二男ともいう)幹胤が、天文年中、鹿島台(近世の佐倉城の東北隅)に千葉介の命で築城を初め、その時一寺を建立したがこれが鹿島山勝全寺であると伝えている。幹胤の開基とすれば、父の勝胤の勝胤寺開基と併せ考え、然も勝胤寺と本末関係にあったことからも創建が幹胤であるとするのは自然であろう。山ノ崎孝祥寺の過去帳には”幹胤は文明四年に生る、初名胤重、天文十四年十月二十日卒、年七十四。鹿島山勝全寺に葬る。子鹿島太郎胤豊が家を嗣ぎ、城東鍛冶作に住す”とある。初め真言宗であったが天正九年、曹洞宗に改めたという説もあるが、天正九年とすると幹胤は既に死し、その子胤重の時である。この頃、本佐倉城にいた千葉介邦胤は北條氏政のすすめで本佐倉から鹿島台に本城を移そうとして、幹胤が初めて中絶していた鹿島城の工事を再び初めたので当寺はその際、鏑木に移したものだという。その場所は、『明暦三年、桜屋鋪割絵図<城主は堀田正信時代>』には「正善寺」と張紙してある。大体現在の宮小路41~43番地の奥の方にあたる。後にまた現在地の中尾余に移転したのであるが、一説には承応年中というが、右の絵図には勝全寺が宮小路にあるから、正信時代の明暦(一六五五~)以降に移転したものと思われる。移転の事情は宮小路が侍屋敷に新規割当てられた結果によるものと思われる。(「佐倉市史」より)

「印旛郡誌」による勝全寺の縁起

勝全寺
鏑木村字右京谷津にあり曹洞宗にして勝胤寺末なり釋迦牟尼如来を本尊とす天正七年五月創立開基千葉家臣鍛冶土佐守平胤豈にして明治十八年三月十九日焼失に付仝十九年六月二日再建せり堂宇間口四間半奥行四間半境内五百七十坪(官有地第一種)あり住職は道端透宗にして檀徒四百六十八人を有し管轄廳まで四里二十六町とす(寺院明細帳)(「印旛郡誌」より)


勝全寺の周辺図