本佐倉城跡。印旛郡酒々井町本佐倉にある旧跡・名所
本佐倉城跡の概要
本佐倉城跡は、印旛郡酒々井町本佐倉にある名所旧跡です。本佐倉城跡は、千葉猪鼻山城の千葉宗家を滅ぼした馬加千葉氏の千葉輔胤が、文明年間(1469-1487)に築いた居城の跡です。当地は印旛沼を望む田園に半島状に突き出した標高約30mの台地に立地、豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原北条氏、その配下千葉氏が天正18年(1590)に滅ぼされるまでの約100年間千葉氏の居城となっていました。徳川家康が関東に入国した後は久能氏・武田信吉・松平忠輝が入封したものの、慶長7年(1602)廃城となりました。なお当地には、かつて平将門が拠った居館跡だとも伝承されています。
旧跡・名所名 | 本佐倉城跡 |
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みどころ | 旧跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 印旛郡酒々井町本佐倉705-4本佐倉城跡公園 |
備考 | - |
本佐倉城跡の由緒
本佐倉城跡は、千葉猪鼻山城の千葉宗家を滅ぼした馬加千葉氏の千葉輔胤が、文明年間(1469-1487)に築いた居城の跡です。当地は印旛沼を望む田園に半島状に突き出した標高約30mの台地に立地、豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原北条氏、その配下千葉氏が天正18年(1590)に滅ぼされるまでの約100年間千葉氏の居城となっていました。徳川家康が関東に入国した後は久能氏・武田信吉・松平忠輝が入封したものの、慶長7年(1602)廃城となりました。なお当地には、かつて平将門が拠った居館跡だとも伝承されています。
境内掲示による本佐倉城跡の由緒
国指定史跡
本城跡は文明年間(一四七〇年代)、千葉輔胤が築き天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉により千葉氏が滅ぼされるまで九代、百有余年間にわたる下総守護千葉氏の戦国時代の居城であった。
城は印旛沼を望む標高約三十mの半島状台地に占地し、南西面を除く三方は水田に囲まれる要害の地である。
総面積は約三十五万㎡、内郭群と外郭群に大きく分かれる。内郭群は城主の館「城山、倉跡」、妙見神社を祭る「奥ノ山」を中心に倉、馬場「東山馬場」などで構成されている。外郭群は「荒上」「向根古屋」「佐倉根古屋」で広大な敷地を有し家臣団の屋敷地や軍団の駐屯地であった。
土塁空堀には雄大な「折れ」、「出枡形」「隅枡形」が明瞭に残り戦国時代の城郭の特徴が見ることができる。
重要な中世城郭として平成十年九月十一日に国史跡として指定された。(酒々井町・酒々井町教育委員会掲示より)
「酒々井町史」による本佐倉城跡の由緒
本佐倉城跡
康正元年(一四五五)馬加康胤が千葉猪鼻山城の宗家を亡ぼして、自ら一七代千葉介を名乗り、猪鼻山城を廃して本拠を平山城、寺崎城と移り、その子輔胤の代に至り本佐倉城を築いて居城とした。以来二七代重胤が小田原の北条氏と運命を共にし、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉に亡ぼされるまで九代、一〇〇余年間、千葉氏の居城であったと伝えられる城跡である。
築城年代については諸説あるが、最近の研究では文明年間(一四六九~八六)築城説が定説化している。城域は字根古谷・堀之内・荒上・向根古谷に亘り、二五万平方メートルに及ぶ広大な面積であり、郭・空堀・土塁など当時の遺構をよく残しており、中世城郭研究上貴重な城跡となっている。(「酒々井町史」より)
「印旛郡誌」による本佐倉城跡の由緒
本佐倉城址
本佐倉字荒上にあり此の城昔の様は大手は上本佐倉向台にして二の門は今の神明社の華表の所なりし長禄年中馬加康胤の子輔胤此に移りしより九代重胤に至り天正十八年七月小田原と共に城陥る八月久能三郎左衛門尉宗能此地に封せらる慶長七年子民部少輔宗秀遠州久野へ所替して廢城となる承平の昔平将門の構へし址なり普通本今昔物語に「時に将門の舎弟将賴平安房守興世王執事佐倉太郎以下七百余人を引具し落行方を尻目ににらんで勝ほこりたる秀郷が九十余人に會釋もなくかけあはせ」云々と
〇大日本地名辞典云今酒々井町の西本佐倉の北なる一丘にして根古屋山と云ふ(一書に舊名キベと云ひ古典に棚戸とある語に出し歟云々)壘壕の遺址歴々として存す
(中略)
〇将門山の地は承平の昔平の将門の構せし址なり普通本今昔物語るに載する所に由り又佐倉風土記載する所に由り按ずるに慶長十六年鹿嶋山興功七八年面成矣とあれど大堀とは清光寺に接する別荘にして城壘とはなし難し又久能宗能天正十八年入部其子宗秀文禄元年□□へ轉し武田万千代信吉(家康の五男)佐倉四万石を賜り慶長七年に至りて常州水戸へ移る松平竹麻呂忠輝(家康の七男)代りて佐倉に入部せしも一年にして信越に轉封せられ佐倉城廢す即慶長八年なり。
〇日本名勝地誌云将門山古城址は即ち千葉氏本城の遺址にして佐倉町大字将門山の山上に在り隣村酒々井町大字本佐倉に接近するを以て時としては本佐倉古城址此の名を稱す蓋し此城隆盛の當時に在ては本佐倉の地即ち其の城市にして今の櫻は土井氏佐倉城を築くに及び始めて城市となりたるものなるべく而して城市の新舊を區別せんが爲舊市を本佐倉と名けたるならん或は云ふ此の城址は往古平将門の築構したる址なりしを輔胤再築して居城を構へたる者なりと今も城址の西北に将門の靈を祭りたる小社あり (「印旛郡誌」より)
本佐倉城跡の周辺図