妙胤寺|印旛郡酒々井町本佐倉にある日蓮宗寺院

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常勝山妙胤寺|旧千葉氏の祈願所、清正公の寺

妙胤寺の概要

印旛郡酒々井町本佐倉にある日蓮宗寺院の妙胤寺は、常勝山と号します。妙胤寺は、当初弥勒院と称する真言宗寺院で、大蛇村にあったといいます。正安元年(1299)中山法華経寺第3世浄行院日祐上人(千葉胤貞の子)が、弥勒院の住職大蔵坊法印と問答をした末、大蔵房法印は日祐上人の弟子となり日乗と改名し、日蓮宗寺院に改めたといいます。その後本佐倉城主千葉勝胤の帰依を受け、勝胤の「勝」より常勝山、「胤」より妙胤寺と改号、千葉氏の祈願所となっていました。明治41年には上本佐倉の善立寺を合併しています。また、当寺には加藤清正公像が祀られていることから「清正公の寺」とも称されています。

妙胤寺
妙胤寺の概要
山号 常勝山
院号 -
寺号 妙胤寺
住所 印旛郡酒々井町本佐倉557
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妙胤寺の縁起

妙胤寺は、当初弥勒院と称する真言宗寺院で、大蛇村にあったといいます。正安元年(1299)中山法華経寺第3世浄行院日祐上人(千葉胤貞の子)が、弥勒院の住職大蔵坊法印と問答をした末、大蔵房法印は日祐上人の弟子となり日乗と改名し、日蓮宗寺院に改めたといいます。その後本佐倉城主千葉勝胤の帰依を受け、勝胤の「勝」より常勝山、「胤」より妙胤寺と改号、千葉氏の祈願所となっていました。明治41年には上本佐倉の善立寺を合併しています。また、当寺には加藤清正公像が祀られていることから「清正公の寺」とも称されています。

「酒々井町史」による妙胤寺の縁起

妙胤寺
常勝山妙胤寺は本佐倉字猿楽場五五七にある。日蓮宗、中山法華経寺に属し、本尊は釈迦牟尼仏である。
由緒
寺伝によると開山は正安元年(一二九九)日祐上人。創建当初は大蛇村(佐倉市)にあって、真言宗弥勒院と称していたが、日蓮宗中山法華経寺三世日祐上人が巡行の途中立寄り、当時の住持であった大蔵坊法印と三日三晩問答(討論)して、遂に住持が説き伏せられたために日蓮宗に改宗した。大蔵坊法印も日祐上人の弟子となり、日乗と改名したと伝えられている。
日祐上人は千葉胤貞の子で中山法華経寺三世となったが、千葉氏の外護によって多くの寺領の寄進を受け、経済的な基礎ができ弘法活動を盛んにし、法華経寺の教勢を拡張した人である。下総地方は千葉氏の所領下にあって、妙胤寺の改宗も政治的・経済的な配慮のもとに前記のような理由をつけて改宗されたものと解せられる。
この後、本佐倉城主千葉勝胤の帰依をうけて、千葉氏の祈願所となり、勝胤の「勝」をとって常勝山、「胤」をとって妙胤寺と山号、寺号を改めたと伝えられている。これによって当寺は千葉氏の祈願所となっていたために檀家の数は少なかったと思われる。
清正公像
妙胤寺は別名、清正公様とも呼ばれていた。これは当寺に日蓮宗の大信徒であった加藤清正の像が祀られているからである。以前は多くの講中があり、遠近からの参拝者が多くあった。清正公の木像は等身大よりも大きく、清正の偉容がよく表現されている。清正の所領地、熊本市本妙寺の清正公像の製作者が江戸在住の佐倉出身の仏師であり、その縁によって当寺の清正公像も製作され、池上本門寺に五〇〇日間安置供養した後、妙胤寺に勧請され、多くの信仰をあつめるようになった。
なお、清正公の手彫も寺宝とされている。これは和紙に墨で大きな掌が印されたもので、清正公を偲ぶ貴重なものである。(「酒々井町史」より)

「印旛郡誌」による妙胤寺の縁起

妙胤寺
本佐倉字猿楽場にあり日蓮宗にして大本山法華寺末なり釋迦牟尼佛日蓮大菩薩を本尊とす正安元丁亥年五月創建開祖は上行院日祐聖人也明治四十一年九月廿四日許可を得て上本佐倉字上宿善立寺を合併す堂宇間口六間奥行七間庫裡間口九間奥行四間廊下間口一間奥行四間水行殿間口六尺奥行五尺表門長九尺境内二千四百四十八坪(官有地第四種)あり住職は牧智位にして檀徒五十五戸を有し管轄廳まで四里二十九町三十八間とす境内佛堂一宇あり即
一、上行菩薩堂。日祐聖人を本尊とす石像にして明治九年七月中出現す建物は長九尺横六尺なり(寺院明細帳)(「印旛郡誌」より)


妙胤寺の周辺図