慈恩院|館山市上真倉にある曹洞宗寺院

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藤谷山慈恩院|里見義康の弟玉峯和尚が創建

慈恩院の概要

曹洞宗寺院の慈恩院は、藤谷山と号します。慈恩院は、里見刑部少輔義堯の父上総介実堯の追福のために、里見義康の弟玉峯和尚が、天正9年(1581)に持仏堂として創建、義康が藤谷山慈恩院として一寺としたといいます。里見家六代の菩提寺となり、里見家から寺領の寄附を受け、里見家断絶後も徳川幕府より寺領15石の御朱印状を受領していました。

慈恩院
慈恩院の概要
山号 藤谷山
院号 慈恩院
寺号 -
住所 館山市上真倉1709-1
宗派 曹洞宗
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -



慈恩院の縁起

慈恩院は、里見刑部少輔義堯の父上総介実堯の追福のために、里見義康の弟玉峯和尚が、天正9年(1581)に持仏堂として創建、義康が藤谷山慈恩院として一寺としたといいます。里見家六代の菩提寺となり、里見家から寺領の寄附を受け、里見家断絶後も徳川幕府より寺領15石の御朱印状を受領していました。

館山市掲示による慈恩院の縁起

房総里見氏九代義康の弟玉峯和尚が、天正九年(一五八一)に創建したと伝えられ、曹洞宗で城内に祀られていた千手観音、聖観音の両菩薩像を移し、里見家の持仏堂としたのに始まると、慶長八年(一六〇三)義康は、この持仏堂を藤谷山慈恩院として開基し寺領四貫八百文を寄付した。徳川幕府も、寛永十三年(一六三六)寺領十五石の朱印状を下付している。境内に義康の墳墓がある、また源氏里見系図その他の古文書が遺されている。(館山市掲示より)

「館山市史」による慈恩院の縁起

当寺は、藤谷山慈恩院と称し、天正九年辛巳(一五八一)で、延命寺第二世月州周筑和尚を招じて開山第一祖としている。もと館山の城山の頂上にあった持仏堂で、館山城主里見義康が、館山城築城の際に、現在の地に移して菩提寺とした。しかし、『慈恩院由緒書』には、
当寺は、里見刑部少輔義堯が父、上総介実堯の追福のために建立し、実堯から忠義まで六代当寺を以って菩提寺となす。云々中略、元和八年(一六二二)忠義は伯耆国田中(鳥取県倉吉市)で病死した。里見家から当寺え、寄附の寺領は、その節、召上げられたが、大猷院様(家光)右の筋目を御聴きになって、里見家から寄附のとおり寺領を下し置かれた。山林境内共、その節のとおり相違なく所持している。
と詳しく記載してある。また、当寺には、里見義康が、天正十九年七月晦日に、持仏堂(慈恩院)に対し、正木西光寺並びに寺領四貫八百文を寄進した朱印状と、家光の朱印状写並びに朱印地調査に対し、元禄二年(一六八九)に慈恩院から府中村代官永井源次郎に差出した覚書が保存されている。
その他に、「正木一家書物」があって、正木一家の続柄、法号等が詳細に記されてある。これは、正木家の系譜を知る上で重要な文献である。
また、当寺の墓地には、名土の墓石が多く、元館山藩の家老で儒学者であった乙幡雲廊の墓、明治戊辰函館五稜郭の戦いで戦死した木下晦蔵の墓、最近では、狩野派画家川名薬山の墓、「快馬一鞭」の著者で東京高等商業学校長坪野平太郎の墓、「房総里見氏の研究」の著者、大野太平の墓等がある。
さらに山門前左側に、東京商大教授峰間信吉撰文の「鹿嶋堀由来日記」と刻した記念碑が建っている。この鹿嶋堀は、里見義康が、父義頼の遺志を継いで館山城築城の際、遠く鹿嶋の領民が、多勢館山に来て、主君の善政に感謝して、勤労奉仕して造った外濠である。その一部は、現在泉慶院池として残って居り、往時をしのぶことができる。
寺宝
一本尊十一面観世音菩薩像一躰運慶作
一弁才天像(義康寄進)一躰運慶作
一正木一家書物
一里見家系図一巻
一里見義康朱印状
一大猷院様有徳院様御朱印状写
なお、重要な古文書が多く保存されている。本堂裏には里見義康の墓がある。(「館山市史」より)


藤谷山慈恩院の周辺図