長福寺|八千代市米本にある曹洞宗寺院

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長福寺|米本城主村上綱清が開基、八千代八福神の弁財天

長福寺の概要

八千代市米本にある曹洞宗寺院の長福寺は、米本山と号します。長福寺は、米本城主村上綱清(永禄元年1558年卒)が開基となり、村上氏の菩提寺として天文20年(1551)に創建したといいます。境内には村上綱清の墓石と伝えられる五輪塔が安置され、山門手前の戒壇石・板碑群と共に八千代市民俗文化財に指定されています。八千代八福神の弁財天です。

長福寺
長福寺の概要
山号 米本山
院号 -
寺号 長福寺
住所 八千代市米本1587
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



長福寺の縁起

長福寺は、米本城主村上綱清(永禄元年1558年卒)が開基となり、村上氏の菩提寺として天文20年(1551)に創建したといいます。境内には村上綱清の墓石と伝えられる五輪塔が安置され、山門手前の戒壇石・板碑群と共に八千代市民俗文化財に指定されています。

「八千代市史」による長福寺の縁起

長福寺
曹洞宗。米本村宇内宿北に所在。寛永十年(一六三三)の『龍隠寺本末帳』に収められた「日本曹洞宗無極派本末帳」には、無極四派の内の「密山派」として「上総国真里谷真如寺」の末寺として「米本村長福寺」があり、観音寺を配下としている旨記されている。龍隠寺は埼玉県入間郡越生町、真如寺は千葉県木更津市に所在。(「八千代市史」より)

「印旛郡誌」による長福寺の縁起

長福寺
米本區字宿北にあり眞如寺末にして曹洞宗に屬し本尊阿彌陀如来を安置す天文二十年辛亥年五月の創立にして開基は村上民部大輔開山は祖宗道元國師十七世法孫膺山嚴召和尚なり毎年八月十五日施餓鬼會あり又宗内布教規程に基き寺院組合を設けて日々傳導布教す殊に春秋兩度には兩本山より布教師来り便宜の地に集合せしめて教旨を傳ふ堂宇間口六間奥行八間境内六百三十坪(民有地第一種)あり住職は八木本光にして檀徒二十人を有し管轄廳まで五里なり境内佛堂一宇あり即
一、薬師堂 薬師如来を本尊とす由緒不詳建物間口四間奥行二間半なり(寺院明細帳)
〇新撰佐倉風土記云在米本村舊風土記曰米本城主村上氏爲開基曰功山玄忠居士不記其名年世永禄中城主村上綱清自殺于寺其系及事故亦未之詳焉(「印旛郡誌」より)


長福寺の縁起

  • 伝・村上綱清の墓石(八千代市指定民俗文化財)
  • 長福寺の板碑一括(八千代市指定民俗文化財)
  • 戒壇石(銘・禁藝術賣買之輩)(八千代市指定民俗文化財)

伝・村上綱清の墓石

この五輪塔は米本城主村上綱清の墓石と伝えられ、江戸時代に書かれた『佐倉風土記』(享保七年一七二二)には「村上綱清派か、米本長福寺に在し。綱清、民部大輔と称す。天文弘治年間(一五三二~五八)、米本城主と為り、永禄元年(一五五八)三月十三日自殺す。」とされています。また、五輪塔がある長福寺は、村上氏の菩提寺として創建されたといわれています。
五輪塔の高さは一四五センチメートル、石材は軟砂岩。火輪の突出部が四隅とも欠けています。地輪部分には銘文があり、拓本によると上のような回向文が見られます。
五輪塔の建立年代は不明ですが、綱清の供養のために後世に建てられたと考えられます。(八千代市教育委員会掲示より)

長福寺の板碑一括

米本長福寺の山門を入った左手奥の山林と、それに続く隣家裏山の斜面から出土した板碑で、断片を含め二十点以上あります。
これらの板碑は武蔵型板碑といわれる緑泥片岩製の卒塔婆で、供養塔の一つと考えられています。高さ約五十センチメートル、頭部は三角で、表面には主尊を示す梵字(種子)や、建てられた年号等が刻まれています。内容の確認できない断片や無刻のものもありますが、阿弥陀一尊の種子が十六基、阿弥陀三尊の種子が刻まれたものを二基確認しています。また、種子の下には蓮華座が刻まれ、中には荘厳具の花瓶が刻まれたものや、種子に金箔が施されたものもあります。
年号をみると、文正二年(一四六七)が最も古く、明應(一四九二~一五〇一)や永正(一五〇四~二一)等、戦国時代初期のものが多く、最も新しいもので享禄(一五二八~三二)の年号が刻まれています。
長福寺は米本城主村上氏の菩提寺といわれており、願文や供養者名等は彫られていませんが、このあたりに住んだ武士等、米本城にも関係する人々が建てたと考えられ、文献史料の少ない中世における当時の信仰等を知る貴重な史料です。(八千代市教育委員会掲示より)

戒壇石(銘・禁藝術賣買之輩)

米本山長福寺の山門左側に建つ、戒めを説く石碑のことで、結界石とも言います。天保九年(一八三八)に建てられ「禁藝術賣買の輩を禁ず」と読みます。高さ2メートルもあり、県内には長生郡長南町全応寺に類似した石碑が一基あるのみと言われています。
この言葉は曹洞宗の常済大師の書かれた『坐禅用心記』に出てきます。ここでいう芸術売買の輩とは今日の芸術家のような文化人のことではなく、旅芸人か物乞いまがいの門付けの人を指し、寺の境内で大道芸を見せ物商売にすることを禁じている訳で、禅寺の風格を浮き彫りにしています。(八千代市教育委員会掲示より)

長福寺の周辺図


参考資料

  • 「八千代市史」
  • 「印旛郡誌」