中割天祖神社|旧東宇喜田村中割鎮守
中割天祖神社の概要
中割天祖神社は、江戸川区東葛西にある天祖神社です。中割天祖神社は、昇覚寺開山住職の邵値阿闍梨が、慶安2年(1649)創建、後に神明寺として一寺にしたといい、旧東宇喜田村中割の鎮守社だったといいます。明治5年に天祖神社と改称、平成元年に東葛西9-5より当地へ移転しました。
社号 | 天祖神社 |
---|---|
祭神 | 天照皇大御神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 江戸川区東葛西7-17 |
祭日 | 11月1日例大祭 |
備考 | 旧東宇喜田村中割鎮守 |
中割天祖神社の由緒
中割天祖神社は、昇覚寺開山住職の邵値阿闍梨が、慶安2年(1649)創建、後に神明寺として一寺にしたといい、旧東宇喜田村中割の鎮守社だったといいます。明治5年に天祖神社と改称、平成元年に東葛西9-5より当地へ移転しました。
江戸川区教育委員会掲示による中割天祖神社の由緒
天祖神社
旧東宇喜田村中割の鎮守で、慶安2年(1649)邵値阿闍梨が天照大神の分神を勧請したのが始まりとされています。もとは神明社とよばれ、明治5年に天祖神社と改称されました。当社は、区画整理に伴う道路建設等により平成元年3月、東葛西9丁目5番地から現在地に移転し、社殿も新築されました。(江戸川区教育委員会掲示より)
「江戸川区史」による中割天祖神社の由緒
天祖神社(葛西一丁目一三一三番地)
旧東宇喜田村中割の鎮守で、別当は昇覚寺で、もと神明社といったが明治五年村社となり天祖神社と改称した。境内の疱瘡守護神社は石造の小祠で「文化十一甲鮪戊歳五月吉日、願主鳳順敬白」と刻まれている。「葛西浦漁業組合紀功碑」は昭和四十一年三月十五日に移設されたもので、また北隅には大きな富士講碑の塚が築かれている。(「江戸川区史」より)
新編武蔵風土記稿による中割天祖神社の由緒
(東宇喜田村)神明寺
同宗(新義真言宗)昇覚寺の門徒。鎮護山と号す。本尊不動を安ず。(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による中割天祖神社の由緒
東宇喜田村(旧葛西一丁目)寛永(一六二四-四四)初年のころより開墾衆落のかたちをなす。寛永十五年(一六三八)高野山無量寿院の一僧、この地にきたり、村民の切願を入れてとどまること十数年、この間、無量寿院昇覚寺を開き、慶安二年(一六四九)皇大神宮をこの地に祀り、神明宮と称し村民の鎮守となし、国家安穏・万民豊楽を祈願した。これ当社の創立で、万治三年(一六六〇)昇覚寺別当境内の隅に不動堂を建て、神明寺と称し、神仏両部を奉仕。明治初年に分れ、天祖神社と改め現在におよぶ。(東京都神社名鑑より)
中割天祖神社所蔵の文化財
- 天祖神社の棟札(区登録有形文化財)
- 富士塚(区登録有形民俗文化財)
天祖神社の棟札
旧本殿内部に保存されていました。十二枚あるうち、最も古いものは、「慶安2年9月29日」の年記と、「邵値法印」の名が記されています。区内旧村在住者の大工の名、各時代の氏子の名が刻銘に記されており、中割地区の村落構成の様相をうかがうことができます。(保管場所・江戸川区郷土資料室)(江戸川区教育委員会掲示より)
富士塚
この富士塚は、昭和初年に、○(○の中に葛)葛西講(富士を信仰した人々)によって旧天祖神社境内に築造されたものです。神社の移転とともに、ここに移築されました。(江戸川区教育委員会掲示より)
中割天祖神社の周辺図