南篠崎天祖神社|上鎌田村鎮守、富士塚>
南篠崎天祖神社の概要
南篠崎天祖神社は、江戸川区南篠崎町にある天祖神社です。南篠崎天祖神社の創建年代は不詳ですが、西光寺住職権大僧都智賢により伊勢神宮の東葛西領上鎌田村の御厨として創建したといいます。明治6年に社号を神明大神宮から天祖神社へと改称、上鎌田村の村社に列格したといいます。
社号 | 天祖神社 |
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祭神 | 天照皇大神 |
相殿 | - |
境内社 | 水神社、浅間神社、三峯神社、日枝神社、稲荷神社 |
住所 | 江戸川区南篠崎町2-54-15 |
備考 | 上鎌田村の村社 |
南篠崎天祖神社の由緒
南篠崎天祖神社の創建年代は不詳ですが、西光寺住職権大僧都智賢により伊勢神宮の東葛西領上鎌田村の御厨として創建したといいます。明治6年に社号を神明大神宮から天祖神社へと改称、上鎌田村の村社に列格したといいます。
境内掲示による南篠崎天祖神社の由緒
当神社は御祭神天照皇太御神を祀り、鎮座年度は不詳でありますが、伊勢神宮の東葛西領上鎌田村の御厨として鎮座されました。
御神殿秘蔵の記録によりますと、文化14年9月(1817)に奉納再建し、社名を鎮守神明大神宮と称され、西光寺(当地)住職権大僧都智賢により御遷宮奉斎されたとあります。又古文書には安政4年9月、時の領主源朝臣松平家宗公御代官竹垣三右衛門の時代に武州国葛飾郡上鎌田村名主芦田一右衛門、嶋村藤左衛門等により社殿を再興したとあります。
明治3年の改正により歴代の神耺は、明治5年11月、宇喜田村の彦沢詞掌、高橋喜尚社掌高橋安太郎社掌の親子三代と続き、その後、香取茂世、昭和25年10月から西小松川道ヶ嶋香取神社(新小岩香取神社)亀井宮司に至りました。
明治6年1月太政官布告により、社号を天祖神社(村社)と改正されました。百六十有余年を経た御神殿でありましたが、老朽甚だしく、昭和40年10月東京オリンピックを記念に氏子崇敬者の総意により、鉄筋コンクリート神明造りの社殿に改築いたしました。厳かに遷座祭を斎行し、広く町内の崇敬を仰ぐ御社として現在に至りました。昭和54年3月吉日南篠崎天祖神社(境内の掲示より)
新編武蔵風土記稿による南篠崎天祖神社の由緒
(上鎌田村)
神明社
西光寺持。下同じ(新編武蔵風土記稿より)
「江戸川区史」による南篠崎天祖神社の由緒
天祖神社(南篠崎町二丁目一二〇番地)
旧村社で西光寺が別当であった。創建年月は不詳。天照皇大神をまつり神明社といわれた。安政四年九月名主芦田平左衛門、年寄芦田一右衛門、島村藤左衛門らによって社殿が再建された。(「江戸川区史」より)
「東京都神社名鑑」による南篠崎天祖神社の由緒
当神社は東葛西領上鎌田村の御厨として祀られ、文化十四年(一八一七)奉納再建とある。古文書によれば、安政四年(一八五七)九月吉日武州葛飾郡上鎌田村名主芦田平左衝門、年寄芦田一右衛門、年寄嶋村藤左衝門によって社殿の再興と書かれている。明治三年御改正につき彦田斎嗣掌拝命、同六年高橋智昭、喜久拝命する。昭和二十五年十月道ケ嶋香取神社亀井悦造宮司拝命、同五十四年亀井瑞雄拝命より現在に至る。昭和四十年氏子の奉賛によって現社殿が完成する。二月の節分には例年総代代表が道ケ嶋香取神社に奉幣をする。正月初詰りには亀井和泉守九字切の矢を多く授与して、境内が賑わう。(「東京都神社名鑑」より)
南篠崎天祖神社所蔵の文化財
- 上鎌田の富士塚(江戸川区登録民俗文化財)
上鎌田の富士塚
富士塚は、富士信仰の団体である富士講の人たちが、富士山の容姿をかたちどって築きあげた小高い塚です。富士山に登ったのと同じ霊験が得られるようにと願って築かれました。
上鎌田の富士塚は、明治19年(1886)に、旧鎌田村の丸星講の人々が築造しました。
塚の高さは、約1.5mで、面積は広く、円墳に近い形をしています。頂上には、「浅間神社」の石祠がまつられています。区内の民間信仰、社会、文化、生活を知る上で、貴重な資料です。(江戸川区教育委員会掲示より)
南篠崎天祖神社の周辺図