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浅間神社|江戸川区上篠崎の神社

浅間神社の概要

浅間神社は江戸川区上篠崎にある浅間神社です。浅間神社は、平貞盛朝臣が平将門平定を祈願して天慶元年(938)に創建したと伝えられます。新編武蔵風土記稿には、下篠崎村の項には神明社(天祖神社)、浅間社、香取社が記載されており、いずれも当浅間神社に鎮座しています。文化文政の頃から江戸やその周辺からの参詣者が増加し、講社なども組織されるほどだったといい、明治7年郷社に列格しています。

浅間神社
浅間神社の概要
社号 浅間神社
祭神 木花開耶媛尊
末社 下浅間神社、下浅間御嶽宮、香取神社、天満宮、八幡神社、白髭神社、天祖神社、須賀神社、霧島神社、稲荷神社、柳島稲荷神社、水神宮、道祖神、弁天社
住所 江戸川区上篠崎1-22-31
備考 浅間幼稚園併設



浅間神社の由緒

浅間神社は、平貞盛朝臣が平将門平定を祈願して天慶元年(938)に創建したと伝えられます。新編武蔵風土記稿には、下篠崎村の項には神明社(天祖神社)、浅間社、香取社が記載されており、いずれも当浅間神社に鎮座しています。明治7年郷社に列格しています。

「江戸川区の文化財」による浅間神社の由緒

篠崎の浅間神社は木花開耶姫命を祀り、天慶元年(938)5月15日の創建といわれ、区内で最も古い神社である。明治7年(1874)に郷社に昇格した。
天慶3年(940)平将門の乱を鎮めるため平貞盛が将門降伏の祈願をこめ、金幣と弓矢を奉納したと伝えられている。文化文政の頃から江戸やその周辺からの参詣者が増加し、講社なども組織されるほどになった。
境内は約4000坪あり、多くの樹木が繁り区の保護樹も多い。昔から「せんげん様の森」として親しまれてきた。昭和57年2月「浅間神社の社叢」として区の「天然記念物」に指定された。(江戸川区の文化財より)

新編武蔵風土記稿による浅間神社の由緒

(下篠崎村)
神明社
前村(上篠崎村)の記す如く、当所は往古伊勢太神宮の御厨領なれば、恐くは太神宮遥拝の為に造立せるべし。されば最古社なるべけれど、其詳なる事は傳へず。今僅に元和3年承応2年の棟札あるのみなり。其図左の如し(略)。
神主奥山伊勢。吉田家の配下なり。先祖は下総国印旛郡弥山と云処の人にて、弥山左奈比と号し、承平2年当所に来て当社及浅間の神職を兼帯し、康保2年5月11日卒す。それより11代の孫某の時、いかなるゆへにや弥山を深山と書改しに、享保年中又故ありて今の苗字に改と云されど後年しばしば水災に罹り、又近き年己が家より火登りて旧記等失ひたれば、古の事総て詳ならず。
富士浅間社
一は村の鎮守とす。無量寺持。社地に御小嶽社あり。一は下の宮と号す。当社は神明神主奥山氏の分家深山佐渡と云者神主たりしに、享保年間罪ありて配流の後本家奥山氏の兼帯といふ。
香取社(新編武蔵風土記稿より)

東京都神社名鑑による浅間神社の由緒

当社は承平二年(九三二)九月下総国弥山の人弥山佐奈比、神大として奉仕した社であり、のち承平・天慶の乱のとき、平貞盛朝臣、将門平定を祈り、霧島神社を祀り金幣・弓矢を奉献して関東の平安を祈った。その時が天慶元年(九三八)五月十日であり、この時を神社の創建としている。村上天皇の宝剣、後花園天皇連歌、伏見天皇色紙等を有し、明治御改革に伴ない祠官任命社となる。これにより明治以前の社守、伊勢守祠掌としてともに奉仕。この社には日本最大の幟十本を伝えており、氏子数十軒前後の村々が強力に維持してきた大幟である。祠官任命の社でも、この職にたいしては国の力はいっさいはいっていない。幟の基に「下総国」の文字が伝承時に入っている。浅間の森(境内)が江戸川区の天然記念物であり、幟祭も無形文化財、冨士講碑も文化財である。宝剣は社の遷宮および節分の夜、厄払神事のときだけ神前に奉持する。浅間の末社八社は、合祀以前は町々の鎮守の社で、明治御改革に伴なう明治初年の合祀であった。なお境内には日清・日露戦役忠霊碑にあわせて、大東亜戦争忠魂碑を造営した。(東京都神社名鑑より)


浅間神社所蔵の文化財

  • 浅間神社の社叢(区指定天然記念物)
  • 浅間神社のぼり祭り(区指定民俗文化財)
  • 浅間神社の富士講碑(区登録文化財)

浅間神社の周辺図


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