金瀧山無量寺|江戸幕府より寺領3石4斗の御朱印状
無量寺の概要
真言宗豊山派寺院の無量寺は、金瀧山真徳院と号します。無量寺は、恵心僧都が関東巡錫のおり、当地に草庵を結んだのが始まりだといい、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領3石4斗の御朱印状を拝領したといいます。
山号 | 金瀧山 |
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院号 | 真徳院 |
寺号 | 無量寺 |
住所 | 江戸川区篠崎町3-5-15 |
本尊 | 木像阿弥陀如来立像 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 墓苑受付中 |
無量寺の縁起
無量寺は、恵心僧都が関東巡錫のおり、当地に草庵を結んだのが始まりだといい、慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領3石4斗の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による無量寺の縁起
(下篠崎村)無量寺
新義真言宗、上小松村正福寺末、金龍山真徳院と号す。本尊阿弥陀、長1尺5寸恵心の作。寺領3石4斗の御朱印は慶安2年賜へり。法流の祖を快傳と云。寛永8年2月寂す。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による無量寺の縁起
量りしれない喜びを与えて下さる無量寿仏(阿弥陀如来)恵心僧都を本尊とする。
当山は金瀧山真徳院無量密寺と号す。上小松村正福寺末、寺伝によれば恵心僧都が関東巡錫のおり、この地に草庵を結んだのが始まりであるという。慶安2年(1649)寺領3石4斗の御朱印を大猷院様(徳川家光公)より賜る。法流の祖は快伝和尚で寛永8年(1631)入寂、神明社、富士浅間社、香取社は当寺の別当とされ、村内には観音堂(十一面観音)、六斎地蔵堂、阿弥陀堂を持す。
国府台合戦で里見軍の残兵がこの寺にたてこもり交戦したため兵火にあい炎上したという。 時移り昭和の大普請を発願す。弘法大師1150年御遠忌事業で昭和58年観音堂・本堂の落慶、昭和62年山門完成、興教大師850年御遠忌事業で檀信徒会館竣工、平成10年客殿・庫裡を完成。
堂塔伽藍の整備によって、当山は一新をし、今さらなる飛躍を期している。ここに大聖業の円成を記念し、沿革を誌す。願わくは、時代の変革にかかわらず信を起し、善を修して積善の徳を誓願するものなり。
「江戸川区史」による無量寺の縁起
無量寺(篠崎町三丁目七〇番地)
真言宗豊山派で金滝山真徳院と号し、もとは葛飾の正福寺末であった。寺伝によると昔恵心僧都が関東巡錫のおり、この地に草庵を結んだのが始まりであるという。恵心僧都作という阿弥陀如来像をまつり、慶安元年に寺領三石四斗の御朱印を受けている。法流の祖は快伝和尚で寛永八年に入寂した。また永禄年間国府台の合戦で里見軍の残兵がたてこもり、兵火のため炎上したという。山門入口に享保九年の立派な笠付庚申塔と寛応和尚建立の弘法大師一千忌塔がある。本堂前に筆子師匠であった住職の墓があり「権大僧都法印覚応本不生位」と刻まれている。明治十七年頃篠崎の弥陀堂を合併している。(「江戸川区史」より)
無量寺の周辺図