無量山永福寺|長福寺として創建、法印頼尊筆子塚
永福寺の概要
真言宗豊山派寺院の永福寺は、無量山光明院と号します。永福寺は、宥賢上人(永禄11年1568年寂)が開山となり長福寺として創建、その後九代将軍家重の幼名長福丸をはばかり、永福寺と改称したといいます。
山号 | 無量山 |
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院号 | 光明院 |
寺号 | 永福寺 |
住所 | 江戸川区東小松川2-1-15 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
永福寺の縁起
永福寺は、宥賢上人(永禄11年1568年寂)が開山となり長福寺として創建、その後九代将軍家重の幼名長福丸をはばかり、永福寺と改称したといいます。
新編武蔵風土記稿による永福寺の縁起
(東小松川村)永福寺
善照寺末、無量山光明院と号す。本尊弥陀。長2尺5寸行基作。当寺古は長福寺と称し、後長福君の御名を憚り今の字に改り、開山宥賢永禄11年正月15日寂。
観音堂
当寺古は此観音堂のみありて庵の如くにてありしと云。(新編武蔵風土記稿より)
江戸川区教育委員会掲示による永福寺の縁起
永福寺
真言宗豊山派で無量山光明院といいます。本尊は行基作と伝えられる木造阿弥陀如来坐像です。開基年月は不詳ですが、開山の宥賢上人は永禄11年(1568)正月15日に入寂しました。はじめは長福寺と称しましたが、九代将軍家重の幼名長福丸をはばかって永福寺と改称しました。(江戸川区教育委員会掲示より)
「江戸川区史」による永福寺の縁起
永福寺(東小松川二丁目四四五三番地)
真言宗豊山派でもとは善照寺の末、無量山光明院という。本尊は行基作という木造阿弥陀如来座像。開山は宥賢上人で開基年月は不詳であるが永禄十一年正月十五日に入寂した。始めは長福寺と称したが、九代将軍家重の幼名長福丸をはばかって永福寺と改称した。これを証するものとして護摩壇の裏に「元禄二乙已歳五月吉日、武州葛西東小松川長福寺賢仲求之、順識」と墨書がある。
年号不明の板碑二枚があり、その他曼荼羅二幅、加藤喜祐の「鹿恩院義満」の画などを所蔵する。(「江戸川区史」より)
永福寺所蔵の文化財
- 法印頼尊筆子塚(江戸川区登録有形文化財)
法印頼尊筆子塚
寺子屋の生徒を筆子といい、成長した筆子が師匠の菩提を弔うために建てた供養塔や墓石を筆子塚といいます。永福寺の筆子塚は方形の墓石で、頂きには地蔵菩薩立像を載せています。墓石の側面に「諸旦方筆弟子」と刻まれ、頼尊が檀家の子弟の筆道師匠を勤めたことがうかがえます。
筆道師匠の筆子塚としては区内でも古いものです。頼尊は永福寺住職で明和3年(1766)に入寂しています。(江戸川区教育委員会掲示より)
永福寺の周辺図