医王山善照寺|江戸幕府より寺領6石の御朱印状、相撲寺
善照寺の概要
真言宗豊山派寺院の善照寺は、医王山薬王院と号します。善照寺は、隆範上人(大永2年1522年寂)が開山となり創建、頼玄上人(万治3年1660寂)が中興したといいます。慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領6石の御朱印状を拝領した他、元禄12年(1699)に横綱明石志賀之助が境内で引退相撲を行ったのをきっかけに毎年草相撲が行われるようになり、相撲寺と呼ばれるようになったといいます。
山号 | 医王山 |
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院号 | 薬王院 |
寺号 | 善照寺 |
住所 | 江戸川区東小松川3-3-19 |
本尊 | 大日如来像 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
善照寺の縁起
善照寺は、隆範上人(大永2年1522年寂)が開山となり創建、頼玄上人(万治3年1660寂)が中興したといいます。慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領6石の御朱印状を拝領した他、元禄12年(1699)に横綱明石志賀之助が境内で引退相撲を行ったのをきっかけに毎年草相撲が行われるようになり、相撲寺と呼ばれるようになったといいます。
新編武蔵風土記稿による善照寺の縁起
(東小松川村)善照寺
新義真言宗、山城国醍醐三寶院末、医王山薬王院と号す。本尊大日を安す。起立の年代詳ならず。隆範大永2年3月7日寂。是則開山ならんと云。中興開山頼玄、萬冶3年9月24日寂せり。
八幡社
不動堂
鐘楼、元禄10年鋳造なり。(新編武蔵風土記稿より)
江戸川区教育委員会掲示による善照寺の縁起
善照寺
真言宗豊山派に属し、医王山薬王院と号します。本尊は大日如来です。起立の年月は不詳ですが、開山は隆範上人で大永2年(1522)に入寂、万治3年(1660)入寂の頼玄上人が中興したといわれています。慶安元年(1648)三代将軍家光より6石の御朱印地を受けた名刹で、古くから浮洲浅間神社の別当をつとめました。文政10年(1827)寺普請の時に地中から発見されたという銅鐸墓版を所蔵し、それについては「成田参詣記」などにも記載されています。この寺は通称「相撲寺」といわれていますが、横綱明石志賀之助が元禄12年(1699)に境内で引退相撲を行ったのをきっかけに、以来毎年不動尊の縁日には草相撲が行われていたことによります。(江戸川区教育委員会掲示より)
江戸川区教育委員会掲示による善照寺の縁起
善照寺(東小松川二丁目四五〇二番地)
真言宗豊山派でもとは山城醍醐三宝院の末であった。医王山薬王院と号し本尊に大日如来をまつる。起立の年代は不詳であるが、開山の隆範上人は大永二年(一五二二)三月七日入寂、また中興開山は頼玄上人で万治三年九月二十四日遷化した。
慶安元年((一六四八)将軍家光から六石の御朱印を受けている名利で、古くから近くの浮洲浅間神社(現在は白髭神社に合祀)の別当をつとめた。文政十年(一八二七)寺普請の時地中から掘り出したという銅碑墓版を所蔵し、それには「天平応真仁正皇太后正一位大夫人光明尊霊、旦那塚銘天平宝字四年六月経王万部結願供養、下総国国分尼字薬王品院、別当伝燈大法師全照尼奉」の銘があり、『成田参詣記』などにも記載されている。
俗に「相撲寺」といわれるが、それは栃木県出身で寛永元年初代の横綱となった名力士明石志賀之助が、元禄十二年九月二十八日境内の不動尊例祭日に引退相撲を行ったのが始めで、区内唯一の大きな行事となったことによるものである。草相撲は地元の各地区から臼、俵、桶、柱、まん幕などを持ち寄り、両国の伊勢の海部屋(今の伊勢ヶ浜部屋)に行事を依頼して盛大に開催された。しかし戦時中昭和十八年を最後に中絶し、同二十九年に復活したが、それ以後は廃止された。
無縁墓地内には円柱型の六地蔵をはじめ、古い石仏があり、梵鐘は昭和三十六年に改鋳されたものである。(江戸川区教育委員会掲示より)
善照寺のもと末寺
善照寺所蔵の文化財
- 旧葛西学校跡(区登録史跡)
- 銅鐸墓版
旧葛西学校跡
江戸川区最初の公立小学校「葛西学校」は、この善照寺を教場として、明治9年10月に開校しました。校舎を新築し、移転する明治14年1月までここを教場としていました。(江戸川区教育委員会掲示より)
善照寺の周辺図