長松山光福寺|五分一不動尊、いちょう寺
光福寺の概要
新義真言宗寺院の光福寺は、長松山延命院と号します。光福寺は、海成坊が天文元年(1532)に開山、13世宥昶阿闍梨(承応3年1654年寂)が中興、通称「五分一不動尊」または「いちょう寺」と呼ばれているといいます。五分一不動、観世音菩薩や紙本着色地獄図を所蔵しています。新葛西三十三所観音霊場10番です。
山号 | 長松山 |
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院号 | 延命院 |
寺号 | 光福寺 |
住所 | 江戸川区松島1-9-24 |
本尊 | 阿弥陀如来坐像 |
宗派 | 新義真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
光福寺の縁起
光福寺は、海成坊が天文元年(1532)に開山、13世宥昶阿闍梨(承応3年1654年寂)が中興、通称「五分一不動尊」または「いちょう寺」と呼ばれているといいます。
江戸川区教育委員会掲示による光福寺の縁起
新義真言宗で長松山延命院といい、通称「五分一不動尊」または「いちょう寺」と呼ばれています。天文元年(1532)海成坊が開山し、本尊に春日仏師の作と伝えられる阿弥陀如来坐像がまつられています。中興は宥昶法印で承応3年(1654)に入寂しました。
境内の不動堂に「五分一不動」と称される不動明王と「衣替観音」と呼ばれる正観世音菩薩がまつられています。(江戸川区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による光福寺の縁起
(西小松川村)光福寺
新義真言宗、上小松村正福寺末、長松山延命院と号す。本尊弥陀長2尺5寸春日の作。外に観音の像一体あり。これは当寺の末観音寺の本尊なりしが、観音寺廃せし後当寺へ移し置く、長1尺4寸5分行基の作。縁起によるに此像は開山海成房初学の時より奉持せしものにて、当寺草創の主となれるもこの観音の霊夢によると云ふ。また当寺十三世宥昶阿闍梨、彼観音の告を蒙り中興して法流の寺となし、寺務連綿せしに年月を経て堂舎廃壊せり。茲に承応3年宥昶の親属にて矢澤氏と云檀越、祈願の事あり。この像を己が家に移せしに怪異の事多かりければ、また当寺に遷座せしむと云。起立は天文元年なるよし。過去帳に開山海成房は元禄8年まで165年と記せり。
閻魔堂
不動堂(新編武蔵風土記稿より)
「江戸川区史」による光福寺の縁起
光福寺(松島一丁目九番二四号)
新義真言宗で長勝山延命院と号し、正福寺の末であった。天文元年(一五三二)海成坊が開山し、本尊に春日仏師作という木造阿弥陀如来座像をまつる。中興は宥昶法印で承応三年九月に入寂した。境内の不動堂には不動明王と正観音をまつり「五分一不動」と称され、又正観音は「衣更観音」といわれて有名であるが史跡と名所の項に記しておく。本堂脇の大イチョウは樹勢が衰えたが回り四.四メートル程の老木で「イチョウ寺」の名の起りとなった。墓所に小高文貞の碑がある。(「江戸川区史」より)
光福寺所蔵の文化財
- 紙本着色地獄図(区登録有形文化財・絵画)
紙本着色地獄図
紙本着色で三幅対の地獄図です。文政13年(1830)に光福寺の什物となりました。江戸時代後期の作と考えられます。
十王の一人である閻魔王の「閻魔王庁図」に「往生要集」にのっとった<六道絵>のうち地獄道の「等活地獄図」と「阿鼻地獄図」の二幅を加えた三幅康生になっています。
図柄には中国宋元画の影響がみられます。(江戸川区教育委員会掲示より)
光福寺の周辺図