正福寺|葛飾区東新小岩にある真言宗豊山派寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

青松山正福寺|葛西三本寺の一、南葛八十八ヶ所、新四国四箇領八十八ヵ所

正福寺の概要

真言宗豊山派寺院の正福寺は、青松山金剛院と号します。行基菩薩が東国教化の際、照明寺の地に小松山金剛院正福寺として創建したと伝えられます。その後雷火のため焼失・衰退しましたが、正安2年(1300)賢栄法印が当地に青松山金剛院正福寺として中興したといいます。江戸時代には、門末80余寺を擁し、慶安元年(1648)には10石の朱印状を拝領、将軍家鷹狩りの際の御膳所となっていました。南葛八十八ヶ所霊場の23番、西新井組中川通四箇領八十八箇所21、22番です。

正福寺
正福寺の概要
山号 青松山
院号 金剛院
寺号 正福寺
住所 葛飾区東新小岩4-8-4
本尊 阿弥陀如来
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 南葛八十八ヶ所霊場の23番札所



正福寺の縁起

正福寺は、行基菩薩が東国教化の際、照明寺の地に小松山金剛院正福寺として創建したと伝えられます。その後雷火のため焼失・衰退しましたが、正安2年(1300)賢栄法印が当地に中興したといいます。江戸時代には、門末80余寺を擁し、慶安元年(1648)には10石の朱印状を拝領、将軍家鷹狩りの際の御膳所となっていました。

新編武蔵風土記稿による正福寺の縁起

正福寺
新義真言宗、山城国醍醐三寶院の末。青松山金剛院と号す。本尊阿弥陀を置。寺領10石の御朱印は慶安元年賜ふ所なり。中興の僧を賢栄と云。寺僧の話に、当寺はもと下小松の地にありしを、此僧此邊の通行の砌今の鐘楼の邊にて鈴鐃の音聞えければ、そこへ印を置土中を掘けるに、彼二品を得、其後寺を当寺へ引、正安3年正月22日起立す。故にこの僧を中興とす。遥の後享保4年正月22日、此邊御成の頃始て御膳所となりしより、屡御膳所となり、其後寺中大破に及しより中絶すと云。当寺もとは門末八十ヶ寺程ありしが、今は四十五ヶ寺となれり。
寺寶
不動画像一幅、弘法大師の筆なりと云。
天満宮画像一幅、菅家自筆の由云傳ふ。
心経一巻。是も弘法大師の筆なりと云。
鈴鐃鈸各二。二器土中より掘出せしものなり、ことは前に弁せり。
鐘楼、明暦3年鋳造の鐘をかく。
東照宮、清龍権現を合社とせり。(新編武蔵風土記稿より)

葛飾区寺院調査報告による正福寺の縁起

旧門末八十余ヵ寺をもった本寺格の古刹。縁起によると、その昔、行基菩薩が東国教化のとき、この地に留まり日夜阿弥陀仏を祈念した。のち一寺を建立し、みずから霊仏を彫って安置し、小松山金剛院正福寺と名づけた。当時の位置は現在地より、やや南方にあたる地点であったという。治承4年(1180)源頼朝が石橋山の合戦に敗れ、安房国にのがれて再起をはかり、さらにこの地に陣幕を張って援軍を待ったところ、果たせるかな関東の豪族葛西氏をはじめ、多くの豪族が争ってこれに加わり、士気多いに振るったので、頼朝は深く当寺仏陀の加護によるものと信じ、崇敬浅からず、のち平氏討滅をなし遂げたので、寺領50石を寄進したという。
弘長元年(1261)雷火のため焼失し、一時荒廃におよんだが、正安2年(1300)賢栄法印がこの地に遊化し、由緒ある法灯の絶えることを憂い、再建をはかった。ある一日、賢栄は上小松付近を巡回し、現在の鐘楼の地点で鈴と鐘の音を聞き、翌3年正月22日、寺をこの地に移して再興した。以来数百年の法灯を伝え、慶安元年(1648)徳川氏から朱印十石を受け、ついで享保4年(1719)正月、八代将軍吉宗鷹狩の節、御膳所に当てられ、以来慣例となっていたが、安永3年(1774)6月22日、大風雨で本堂が大破してこのことは絶えたという。多くの記録類は寛政4年(1792)の火災で失い、現在は過去帳および朱印状写・「正福寺惣門末起立録」・「本末帳」等以外には残っていない。元文4年(1739)の「正福寺惣門末起立録」の当寺の条には、
1 開基 不分明
1 本尊 弥陀如来
1 中興 後伏見院御宇正安3年 法印賢海 元文4年迄 凡439年
1 御朱印 10石
1 境内 御免許 享保18年、於醍醐三宝院道場、法印賢海御法流相続
享保19年 末寺江御法流付属
1 寺附1町9反3畝13歩 御年貢地
1 惣門末都合80箇寺内、善照寺並又門徒20ヵ寺、正福寺永伝代、難末。直門徒2ヵ寺退転、又門徒9ヵ寺退転。残而56箇寺之内、末寺17ヵ寺、直門徒28ヵ寺、又門徒11ヵ寺
1 境内、有清滝権現社地
1 御代官所 伊那半左衛門殿
とある。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)

正福寺のもと末寺

葛飾区にある正福寺のもと末寺

新編武蔵風土記稿によると、正福寺はもと末寺80余ヵ寺を擁していたものの、東小松川善照寺が山城国醍醐三寶院直末となったことから、当寺の末寺は又門徒を含め56ヶ寺(直末45ヶ寺)と伝え、葛飾区に16ヵ寺が現存しています。


廃寺となった東覚院について

東覚院は、原村(現東立石)鎮守原稲荷神社の別当寺でした。

東覚院
新義真言宗小松村正福寺末、稲荷山用水寺と号す。本尊不動を置。(新編武蔵風土記稿より)

廃寺となった西蔵院について

西蔵院は、上小松村天祖神社の別当寺でした。西新井組中川通四箇領八十八箇所21番でした。

西蔵院
村内正福寺末、香取山蓮花寺と号す。本尊阿弥陀、中興僧海鎮元亀元年再興する所なり。(新編武蔵風土記稿より)

廃寺となった西光院について

西光院は三社明神社(現奥戸天祖神社)、諏訪社、第六天社等奥戸村所在の神社の多くの別当寺でした。

西光院
新義真言宗、上小松村正福寺末、金剛山正保寺と号す。当寺もとは医王山正覚院薬師寺と号せしが、文明2年厳泉と云僧改号すと云。本尊阿弥陀坐像にて長1尺5寸許。行基の作と云。今は無住にして寺傳のことは詳ならず。
観音堂
蜆観世音と云。来由詳ならず。(新編武蔵風土記稿より)

廃寺となった鏡智院について

鏡智院は、正福寺末寶蓮寺門徒とあり、正福寺の又門徒でした。もと新宿日枝神社の別当寺で、現新宿日枝神社の地にありました。

鏡智院
寶蓮寺門徒にて山王山と号す。本尊大日を安せり。(新編武蔵風土記稿より)

廃寺となった泉蔵院について

泉蔵院
同末(新義真言宗上小松村正福寺末)、大日山と号す。不動を本尊とせり。(新編武蔵風土記稿より)

廃寺となった光増寺について※金町の浄土宗光増寺とは異なります。

(小合新田)光増寺
新義真言宗、上小松村正福寺門徒、如意珠山と号す。本尊不動。(新編武蔵風土記稿より)

葛飾区外にある正福寺の旧末寺



正福寺所蔵の文化財

  • 五鈷種子鈴 1口(葛飾区指定文化財)
  • 正福寺惣門末起立録正福寺本末帳 2冊(葛飾区指定文化財)

正福寺の周辺図