摂取山法養寺|大永元年開山、こども寺
法養寺の概要
浄土宗寺院の法養寺は、摂取山光照院と号します。法養寺は、貞誉法養大和尚(天正2年1574年寂)が大永元年(1521)開山、江戸末期には寺小屋を開いていたことから「こども寺」と呼ばれていたといいます。
山号 | 摂取山 |
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院号 | 光照院 |
寺号 | 法養寺 |
住所 | 江戸川区西一之江3-33-1 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 松江ひかり幼稚園併設 |
法養寺の縁起
法養寺は、貞誉法養大和尚(天正2年1574年寂)が大永元年(1521)開山、江戸末期には寺小屋を開いていたことから「こども寺」と呼ばれていたといいます。
新編武蔵風土記稿による法養寺の縁起
(西一之江村)法養寺
浄土宗、上今井村浄興寺末。光照山摂取院と号す。本尊阿弥陀を安ず。開山貞誉、天正2年5月18日寂。(新編武蔵風土記稿より)
江戸川区教育委員会掲示による法養寺の縁起
浄土宗で摂取山光照院と号し、大永元年(1521)貞誉法養大和尚によって開山されました。本尊には阿弥陀如来をまつっています。(江戸川区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による法養寺の縁起
法養寺(西一之江一丁目一〇〇七番地)
浄土宗で摂取山光照院と号し、大永元年(一五二一)貞誉法養大和尚(天正二年入寂)によって開山された。本尊は阿弥陀如来、昔寺子屋が開かれていたので「こども寺」と呼ばれていた。当山第二十二世厳誉連瑞上人は江戸末期から明治初頭にかけて寺子屋を開設し、筆子は旧東小松川村、松江村、瑞江村一帯から集まって盛観を呈した。
当寺は明治三十九年失火によち全焼し古記録を失った。昭和四十七年七月鉄筋コンクリート二階建の本堂が新築された。(新編武蔵風土記稿より)
法養寺所蔵の文化財
- 戒誉上人筆子塚(江戸川区登録文化財)
戒誉上人筆子塚
当寺は、「こどもでら」と通称され、明示39年に焼失した庫裡を教場にして寺子屋が開かれ、歴代住職が師匠をつとめました。筆子(寺子屋の生徒)は、旧東小松川村、松江村、瑞江村一帯から集まったといわれます。
筆子塚は、成長した筆子たちが師匠をしのんでたてた供養塔(墓石)のことです。
享和2年(1802)に入寂した定蓮社戒誉上人の墓石には「読書手跡門人」(筆子)による建立であることが記されています。(江戸川区教育委員会掲示より)
法養寺の周辺図