上赤塚氷川神社|赤塚城主千葉介自胤が創建、祭神藤原広継命
上赤塚氷川神社の概要
上赤塚氷川神社は、板橋区赤塚にある氷川神社です。上赤塚氷川神社は、長禄元年(1458年)赤塚城主千葉介自胤が武蔵一ノ宮氷川神社の御分霊を勧請して創建、江戸期には上赤塚村の鎮守として祀られ、明治5年村社に列格しています。当社に藤原広継命が祀られていますが、その理由は不詳だといいます。
社号 | 上赤塚氷川神社 |
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祭神 | 素戔鳴尊、藤原広継命 |
相殿 | - |
境内社 | 天祖神社、八幡神社、白山神社、御嶽神社、浅間神社、阿夫利神社、榛名神社、大国神社 |
住所 | 板橋区赤塚4-22-1 |
備考 | - |
上赤塚氷川神社の由緒
上赤塚氷川神社は、長禄元年(1458年)赤塚城主千葉介自胤が武蔵一ノ宮氷川神社の御分霊を勧請して創建、江戸期には上赤塚村の鎮守として祀られ、明治5年村社に列格しています。
新編武蔵風土記稿による上赤塚氷川神社の由緒
(上赤塚村)
氷川御霊合社
村の鎮守なり清涼寺持(新編武蔵風土記稿より)
板橋区教育委員会掲示による上赤塚氷川神社の由緒
旧上赤塚町一帯の鎮守である。改築前の社殿は区内に類を見ない古風な様式をとどめていた。祭神は素戔鳴尊と藤原広継命である。藤原広継命は奈良時代に政権争いから九州へ追いやられ、大宰府で反乱を起こしたが、朝廷軍に捕らえられて処刑された薄幸の貴族である。
朝廷ではその怨霊のたたりをおそれて神として祀ったが、いかなる理由で当社にまつられたかは不明である。
境内の朱塗りの厳島型鳥居も珍しく、また一の鳥居までの欅並木の参道も見事なものであり、その巨木は当社の歴史の古さをものがたっている。
この他にも人造富士、白山社、疱瘡神の祠など見るべきものが多々残されているが、春に満開となった時の桜並木は特に美しい。
また、かつて行われていた「田遊び」の名残が留められている。(板橋区教育委員会掲示より)
境内掲示による上赤塚氷川神社の由緒
当神社は後花園天皇の長禄元年(1458年)武州赤塚城主千葉介自胤が武蔵一ノ宮氷川神社の御分霊を奉請し是に鎮座奉った御神威尊き御社である。広い境内には往時を今に語るが如く樹齢数百年を経た欅の大樹が聳え楠公孫樹其の他数多くの常緑落葉の樹木が森を成し参道の桜並木は開花季実に見事で近郷近在にも稀である。(境内掲示より)
「いたばしの神社」による上赤塚氷川神社の由緒
当社は後花園天皇の長禄元年(一四五七)に武州赤塚城主千葉介臼胤が武蔵一の宮氷川神社より御分霊を勧請したものである。藤原広継命の奉祀については由緒不詳である。
鎮座後しばらくの間社殿廃毀していたのを安政丁巳四年正月氏子の協力によって本殿を再建し、明治十四年八月拝殿を新築した。更に昭和五十二年四月現在の拝殿に改築された。社務は元当時真言宗清涼寺に在ったが、明治五年十一月榎本清富祠掌となり、同年同月村社に定められた。大正三年一月御配位の当日神饌幣帛料供進神社に指定された。(「いたばしの神社」より)
東京都神社名鑑による上赤塚氷川神社の由緒
不詳。古老の伝承によれば、赤塚の領主千葉介自胤長禄年間(一四五七-六〇)武州一之宮氷川神社に詣で、その分霊を乞い、当地に鎮座せしものという。その後、永く社殿廃毀に帰し、安政四年(一八五七)正月氏子の協力により本殿を再建し、明治十四年八月拝殿を新築。(東京都神社名鑑より)
上赤塚氷川神社所蔵の文化財
- 氷川神社の参道並木(板橋区文化財)
上赤塚氷川神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの神社」
- 東京都神社名鑑