中丸熊野神社|板橋区熊野町の神社

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中丸熊野神社|庭田主水正氏兼が応永年間熊野権現を勧請、旧中丸村の鎮守

中丸熊野神社の概要

中丸熊野神社は、板橋区熊野町にある熊野神社です。中丸熊野神社の創建年代は不詳ですが、宇多天皇の皇子敦実親王14代の孫にあたる庭田主水正氏兼(後に岩田と改姓)が当地中丸村に移住し、熊野権現を勧請し創建したと伝えられます。天正15年(1587)当地へ遷座、江戸時代には中丸村の鎮守となっていました。

熊野神社
熊野神社の概要
社号 熊野神社
祭神 伊佐奈美命、速玉之男命、事解之男命
相殿 -
境内社 -
住所 板橋区熊野町11-2
備考 中丸、板橋宿上宿の鎮守



中丸熊野神社の由緒

中丸熊野神社の創建年代は不詳ですが、宇多天皇の皇子敦実親王14代の孫にあたる庭田主水正氏兼(後に岩田と改姓)が応永年間(1394-1427)当地中丸村に移住し、熊野権現を勧請し創建したと伝えられます。天正15年(1587)当地へ遷座、江戸時代には中丸村の鎮守となっていました。

新編武蔵風土記稿による中丸熊野神社の由緒

(中丸村)熊野社
村の鎮守なり、西光院持。下同じ、稲荷社(新編武蔵風土記稿より)

板橋区教育委員会掲示による中丸熊野神社の由緒

もと熊野宮とも熊野三社権現とも称し、また単に熊野社とも呼ばれていました。
創建年代は不明ですが、社伝によると応永年間(1394-1427)に宇多天皇の皇子敦実親王14代の孫にあたる庭田主水正氏兼(後に岩田と改姓)が、武州豊島郡中丸村に移住し、熊野権現を勧請したことに始まるといわれています。以来中丸村周辺の鎮守として崇敬されますが、天正15年(1587)氏兼から五代目の孫忠経の時に現在の場所に遷ったといいます。
昭和20年(1945)5月、空襲により本殿や社務所などが焼失しましたが、同23年には仮社殿が建てられ、さらに同40年から43年にかけて本殿、拝殿など主要な建物が建設されました。(板橋区教育委員会掲示より)

「いたばしの神社」による中丸熊野神社の由緒

熊野神社は、もと熊野宮とも熊野三社権現ともいい又、単に熊野社とも称する。創立は応永年間(今より五首数十年前室町時代)に、庭田主水正(後に岩田と改めた)氏兼という者が熊野権現を分杷し、以来この地の鎮守の神として崇敬した。庭田主水正氏兼は第五十九代宇多天皇の皇子敦実親王の十四代目の孫で敬神の念が厚く、特に紀州熊野権現は祖先以来崇敬の厚かった社であったので、氏兼は故あって東に下り、この武州豊島郡中丸村に任した際、ここに分霊を奉杷したのである。続いて氏兼より五代目の孫忠経は天正十五年にこの地に来て同族の繁栄を祈って氏神の社として崇敬せられた。当時この中丸村に住した岩田氏の外、庄野氏田中氏荒井氏の各民族が居住していたが、皆本社を氏神として崇敬された。
元享二年右四民等挙げて社殿を造営しその後も数度の社殿造営が行われた棟札等存したが、昭和二十年五月二十五日の空襲で大正二年の社殿共々焼失した。(「いたばしの神社」より)

東京都神社名鑑による中丸熊野神社の由緒

本社は、もと熊野宮とも熊野三社権現とも称し、またたんに熊野社とも呼ばれていた。創立は、応永年間(一三九四-一四二八)、庭田(後に岩田と改名)主水正氏兼が、武州中丸村に移住し、ここに熊野権現を分祀し鎮守神として崇敬されてきた。庭田氏兼は、宇多天皇の皇子敦実親王十四代の孫で、常に敬神の念深く、中でも紀州熊野権現は祖先以来崇敬の念厚い社であった。また氏兼より五世の孫忠経天正十五年(一五八七)さらにこの地に来て同族の繁栄を祈り、氏神社として崇敬した。(東京都神社名鑑より)


中丸熊野神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「いたばしの神社」
  • 東京都神社名鑑