桜川御嶽神社|武州御嶽神社を勧請
桜川御嶽神社の概要
桜川御嶽神社は、板橋区桜川にある御嶽神社です。桜川御嶽神社の創建年代は不詳ながら、上板橋村字栗原には、宝田家の祀る稲荷社しかなかったため、上板橋村字栗原・上板橋村字七軒屋の人々が武州御嶽神社(或は信州御嶽神社)を勧請したといいます。
社号 | 御嶽神社 |
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祭神 | 菅原道真公 |
相殿 | 天照大御神、猿田彦尊、保食命 |
境内社 | 須賀神社、稲荷神社、杵築神社、天祖神社、石上神社、三峯神社、浅間神社、水神宮、天王神社、三山神社 |
住所 | 板橋区桜川1-4-6 |
備考 | - |
桜川御嶽神社の由緒
桜川御嶽神社の創建年代は不詳ながら、上板橋村字栗原には、宝田家の祀る稲荷社しかなかったため、上板橋村字栗原・上板橋村字七軒屋の人々が武州御嶽神社(或は信州御嶽神社)を勧請したといいます。
新編武蔵風土記稿による桜川御嶽神社の由緒
(上板橋村)
該当記載なし(新編武蔵風土記稿より)
板橋区教育委員会掲示による桜川御嶽神社の由緒
創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現上板橋)の氏神として、倭建命(やまとたけるのみこと)・金山毘古命(かなやまひこのみこと)・金山毘賣命(かなやまひめのみこと)を祭神とする。
栗原の地は、康正二(一四五六)年、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現・宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあって、往古より開けた土地柄であった。
当神社もその頃、信州の御嶽山(一説に甲州)を勧請したものと伝えられる。境内にある嘉永七(一八五四)年銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。
毎年三月八日に行われる毘謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(蓬莱山)を神前に供える風習が残されている。(板橋区教育委員会掲示より)
「いたばしの神社」による桜川御嶽神社の由緒
康正二年(一四五六)に太田道灌が千代田村に江戸城を築くにあたって、当地の先住人を各地に移させたが、その中に宝田姓を名乗る一族は上板橋村栗原に移り住んだ。この時彼等が祀っていた稲荷神社を石神井川を見おろす小高い丘の上(現城北中央公園)に遷座させたという。当時上板橋村栗原には神社がなく、この神社に参詣する人が多く賑わいを見せた。
ところが、この稲荷社は宝田家の神社であったため、栗原七軒屋の人々が、武州(一説に甲州)から勧請して祀ったのが当社であると言われている。(「いたばしの神社」より)
東京都神社名鑑による桜川御嶽神社の由緒
戦前は小さな社にすぎなかったが、敬神講を設立。昭和四十五年には社務所を改築するとともに、氏子総代を中心におびしゃ祭の復活など、伝統を残す運営がされている。(東京都神社名鑑より)
桜川御嶽神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの神社」
- 東京都神社名鑑