板橋天祖神社|地名常盤台発祥の松林「常磐」
板橋天祖神社の概要
板橋天祖神社は、板橋区南常盤台にある天祖神社です。板橋天祖神社の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代に伊勢社を勧請したと伝えられ、江戸期には神明社と称し、上板橋村の鎮守社となっていました。明治5年村社に列格、住所の常盤台は、当社に繁茂する松林の「常磐」より起っているそうです。
社号 | 天祖神社 |
---|---|
祭神 | 天照大御神 |
相殿 | - |
境内社 | 榛名神社、日枝神社(権現社)、月読神社、伊勢神社、稲荷神社、北野神社 |
住所 | 板橋区南常盤台2-4-3 |
備考 | 上板橋村鎮守、旧村社 |
板橋天祖神社の由緒
板橋天祖神社の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代に伊勢社を勧請したと伝えられ、江戸期には神明社と称し、上板橋村の鎮守社となっていました。明治5年村社に列格、住所の常盤台は、当社に繁茂する松林の「常磐」より起っているそうです。
新編武蔵風土記稿による氷川神社の由緒
(上板橋村)
神明社
村の鎮守にて長命寺持下三社持同じ(新編武蔵風土記稿より)
板橋区教育委員会掲示による板橋天祖神社の由緒
御祭神 天照大御神。
当社の創建は不詳であるが、当社は近一帯が豊島氏によって開拓されたことを考えると室町時代には神社の形態をなしていたと思われる。江戸時代には神明社と称し、旧上板橋村の鎮守となっている。
境内にある狛犬や絵馬などの奉納者に川越街道上板橋宿の住人の名が見え、宿場と深い結びつきがあった。
寛政9年(1793)、蜀山人が当社を訪れた時の記録が残っているが、それによると、「神明宮ありて古老松杉枝を交えて大なる柊もあり宮居のさまもわら葺きにて黒木の鳥居も神さびたり・・・」と書き記している。
明治5年村社天祖神社と改称し今日にいたっている。境内にある弘化3年の狛犬に、円形のきずがあるが、これは昭和20年6月10日の空襲による爆弾の半片の跡。6月10日の空襲を伝える数少ない遺構の一つである。(板橋区教育委員会掲示より)
「いたばしの神社」による板橋天祖神社の由緒
上板橋村字原に天照大御神の影向跡があって、そこに伊勢社(現当社の末社〉を勧請したと伝えられる。鎌倉時代後深草天皇の頃であろうと言われる。
当社の鎮座地上板橋は川越街道の宿場として栄え、老杉老松の繁茂する杜が宿場からも遠望でき宿場の目標になったといわれる。氏子範囲は宿場を含め上板橋村全域で、社号を神明社(神明一月)と称し、村内にある小社は皆当社の支配下にあったという。明治五年十一月二十七日村社に定められ、同六年三月社号を天祖神社と改称した。
寛政九年四月太田南畝が参拝していることが、その著異本武江披砂に見える。昭和十年東武鉄道が当社の境内を含む上板橋村原の北部を買収し住宅街とした地を「常盤台」と称したが、これは当社に繁茂する松林の「常磐」にちなむものである。(「いたばしの神社」より)
東京都神社名鑑による板橋天祖神社の由緒
創建は不詳であるが、後深草天皇のころであると伝えられる。当社の鎮座地は、江尾時代川越街道の宿場(上板橋宿)で、同宿の産土神として信仰を集めた。当時は社号を神明社(神明宮)と称し、宿内に祀られている小社は、皆当社の管理下にあったという。明治六年天祖神社と改称した。寛政九年(一七九七)太田南畝が参拝していることが、その著「異本武江披砂」に見える。また現在地名常盤台は、当社に繁茂していた松林の「常磐」にちなんでつけられた。(東京都神社名鑑より)
板橋天祖神社所蔵の文化財
- 板橋天祖神社所蔵資料(板橋区文化財)
板橋天祖神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの神社」
- 東京都神社名鑑